80バーさんのつぶやきX

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「  老い 」を語る   04.3.18

  今日、18日東京は桜の開花宣言をした。04年の春 開幕だ。この冬が、暖冬だったので平年より10 日早いとか?

今朝早く、昔の教え子から電話があり、「5月に同期会をするのですが、出て頂けますか?」と。いつも、ホイホイ出かけるのに今年は「ゴメンナサイ!、此の頃、脚が弱って、もう出られないの」とお断りした。「同級生でも、2・3人は杖を突いて来ますよ。」と尚もお勧め頂いたが何故か気が進まない。  結局、そのうち、我が家を訪ねてくださる事になった。

 私も、何時の間にか80歳を超えてしまった。

生をうけてから沢山の「時間」が積み重なって「今」があるのだから、色々出てくる筈だ。

 ご先祖様、両親のDNAを信じて、私は身体には自信をを持っていたのに、「老い」の宣告を最初に受けたのが「眼」だったとは。

 小学生とヨーロッパの地図をひろげてある都市を探していた時、「確かこの辺?」と眼をこらす私の眼がどうしても字が読めない。ボーっとミミズが連なったように黒い紐が見えるだけ。  「ワーッ もしかして老眼?・・・・」

50代の半ばで、胃切除の手術を受けたあとだった。観念して老眼鏡を作った。

老眼は、60歳ぐらいになると、殆どの人がなると聞いていたし、眼鏡の御かげで大した不自由も無く、「老い」を自覚することもなかった。 眼と歯には自信があったから。

手先の細かい仕事が好きで、刺繍とか、編物とかしていると時間を忘れる程だった。

私が60歳過ぎて主人の体調が悪くなり、病院通いや、看病に追われたが、手も、足も良く働いてくれ、「あんたは、力持ちだねえ」 などとおだてられていい気になっていた。

78歳で50ねん以上も一緒に暮らした主人に逝かれて、一人になって3年め、ある日歩道の低い段差に足をとられ転んだ時は、「アラッ、わたしどうなったの?」とびっくりした。

それから、車止めのコンクリートに足をとられたり、階段が怖くなったり、無意識でも外歩きに慎重になってきた。

良く、老いは足から来ると聞いてはいたけれど、若いとき、泳いだり、山登りをしたり、あれこれのスポーツも楽しんだ私が「なんでー?」となさけなくなった。

  ひとは、それぞれ。  なってみないと、わからない。

  我が身に降りかからなくてはワカラナイことなのだ。

昔のお年寄りは、決して声に出して教えてくれなかった。私は、母が無くて、60代の祖母と暮らしたが、幕末の武士の妻としての躾を受けた人だったから、決して泣き言をいわなかった。老いのつらさも、黙って、自分一人で耐えていたのか?と今頃気がついて、申し訳ないことだったと思ったりする。

 私は、口に出して言って置こう。
若いときにはわからないことだから。

此の頃は、知らない方からも「お気をつけて」と声をかけていただくし、重そうなものを持っているとそっと手を添えてくださる方もいる。 わたしは、としよりなんだ?  そして、

私も、素直に有り難く感じるようになった。

テレビを見ているとつい膝を進めてよく見えない字幕を覗くようになったり、夜の空を見上げると月も星も何重にもかさなりチラチラと形が崩れる。

耳も、遠くなったようだ。

煮物の味が、ショッパくなったり、人の名前がすぐに出てこなかったり、正に老人そのもので笑い事で無くなった。

  時の重みが刻々と私の上に降り積もってきたのだから仕方ないか?

これから、この重みとどう付き合っていこうか?

そのまま、素直に受け入れて、無理しないで、余り回りにお世話をかけないで過ごせたら 「望外のしあわせ」としたいものだ。

今日、テレビで相撲を見ていたら、あのかわいかった北天裕関(現二十山親方)が、銀縁の眼鏡をかけて、審判関に座っていた。 時間は、誰にでも平等に降り積もっていく。
 

 

 

 

小さな「春」見つけた    04.1.30.

まだ、立春にならないから今は,大寒の最中だ。
でも,首都圏ニュースでは、「湯島の天満宮では、白梅が咲いている。」とか「昨日,畑の隅にふきのとうを見つけて,テンプラにして家族で春を味わいました」とか、「蝋梅の花が満開です」もうそこには「春がきた」ような写真や、手紙が沢山伝えられるようになった。

私も,当地へ越してきた3年前から,毎年市役所の庭に咲く蝋梅を見に連れて行ってもらう。今年も1月14日に連れて行ってもらった。  澄んだ青空のなかにもう満開になっていた。
前、住んでいた家の庭にも大きくなった蝋梅が一本あって、寒風の中で可憐な黄色の花達が臥せっている主人のベッドまでやさしい香りを運んでくれたっけ。蝋細工のような艶やかなまるい蕾が日に日に膨らんでいくのを眺めながら,何を思っていたのだろう。少し暖かさの増した陽射しの中の蝋梅の花は、やさしく、ほっこりと美しかった。

 一人居の部屋のベランダでは、プランターに植えたチューリップやフリージアが芽をだし、水仙の葉も大きく茂ってきた。ヒアシンスの株もズングリ育ってきた。今朝は,スノードロップの白い花が、四つ,五つ小首を傾げて咲き出した。

春は、もうすぐそこまで来ているようだ。

 

 立春 に思うこと    04.2.3

今日は節分、明日が立春だ。

スーパーのチラシに福豆といわしの広告が大きく載っている。

成田山では、春場所で優勝した朝青龍や大河ドラマの新撰組に出ている俳優さんたちが、裃姿で豆を播いている。

一人でも豆撒きして、いわしを食べようと買いにいってきた。みんな、皆、幸せと平和をのぞんでいるとおもう。

イラクへ派遣される自衛隊の若者が、アメリカ兵のような服装で、高性能の銃器装備と共に送り出されて行く姿が、繰り返しテレビに写されている。

いいのかなー、こんな事「アリ」なの??

  悲惨な戦時を生きた私は20代で、悲しさ、苦しさは今も昨日のように覚えている。

時の流れが「激流」のようにおそろしい。

「のどかな春」なんて言葉はもう無い!大昔の言葉になったようだ。

まさに、80バーさんを実感させられる。どうにも成らないバーさんの繰言だろうか?

東京は、1ヶ月も雨らしい雨が降らなかったとか?

 近頃、地球はおかしくなっちゃった??

     極寒の 碧空(そら)  裂きすすむ 飛行雲
 

寒の入り ―冬の思い出―    2004・1・6

 

        今日、1月6日は「寒の入り」だ。これから寒くなる。

寒中といえば、昔は、さむかった。

信州生まれ、信州育ち。 凍り豆腐が畑一面に広げて作られた厳寒の地、諏訪の出だ。
諏訪湖が、全面結氷し「ソロソロ、御神渡りがあるぞ!」と年寄りが言う頃の、頭の芯がしびれるような寒い夜の事を思い出す。

寒参りというのか、頭と顔を白い布で包み白装束の男女一団が、うちわ太鼓を「トーン、トーン、トントン」と叩き、「なむみょうほーれんげきょう」と唱えながら、真っ暗な夜の道を行列で歩く姿を台所の戸を細く開けて覗いていた、背中から、足もとから忍び寄る寒さと、体のこわばるような怪しげな気持・・・が幼い頃の思い出としっかり残っている。

学校を出て、初めて就職したのは信州、佐久 。此処も厳寒の地だった。雨戸一重の4畳半。炬燵に入って明日の下調べをしていると、炬燵の上のインクが瓶の中で凍ってくる。みかんも漬物もガリガリになる。部屋の中でもマイナス10度ぐらいだったろう。  最も戦争中だったから、昼間も暖房など無くて、休み時間は皆、陽の当たる校舎の板壁に寄りかかってヒナタボッコであたたまっていた。

結婚して、秋田県の鉱山の社宅に入った。8月のお盆が過ぎるともう夕方は寒くなる。
小さな電気コンロに被さるようにして、身体を温めた。毎日雪が舞って、寝ていると顔に雪がかかって目が覚めたこともあった。夏のうちから、冬用の薪を「こんなに?」というほど用意して、家のまわりに積み上げる。ブリキ製のストーブを半年間焚き続けるのだから。買い物に出ると、雪が下から吹き上げる。地吹雪に、目も鼻も口もあけられない。風が吹きまわすので道が見えない。 八甲田山の遭難もかくありなん・・・・と思った。

5月20日に長男が生まれたが、未だ、部屋にストーブを焚いていた。
秋田に3年いて、新潟に移った。現在飛行場のある、海岸近くの社宅だった。此処は、11月になるとシベリヤ直輸入の北東の風が吹き付けるので、何処の家でも太い棒と稲藁で風除けを立てていた。

今でも、気象のお知らせを見ると、ヤッパリ風はつよいようだ。  クリスマス寒波とか、正月寒波とか言って、新潟や、佐渡は冬はきつい。新潟に11年。その後、大阪、京都、東京等動いたが、世の中もかわって豊かになって、「今は昔」のなつかしさになった。

今の私は、なんと、暖房の要らない生活で、しあわせそのものだ。南面するベランダの中、5メートルほどのガラス張りの部屋は正に温室だ。部屋の中まで陽光が差し込んで暖かさは夜まで続く。ラン、シクラメン サボテン・・・が毎年咲いてくれる。ベランダでは、水仙、フリージア、ヒアシンスの芽が、ぐんぐんのびている。

 感謝 感謝の毎日だ。

そう言えば、子供の頃、お正月になると、「初音売り」が夜の町を、「初音ーはつねー」「ピーヨ ピーヨ ピヨピヨピョッ」と流して歩いたっけ。

細い竹を、5.6センチに節をつけて切り、節の上下を指で抑えて吹くと、聞きようによって「ホーッ・ホケキョ、ケキョ」と聞こえたものだ。赤い紙を巻いて白いミヅ引きを結んだ素朴な縁起物だった。「もうすぐ、春が来るよ、うぐいすも鳴くよ!・・・」と言う願いが込められていたのだろうか?

 

 

  初日の出    2004・1・1

2004年元旦、午前6時50分 初日の出を見ようとベランダへ出た。

東の空は、白々と雲が棚引き、夜明け前の静寂の空気も何となく緊張気味に感じられる。

音も無く、東の空が、赤みを帯びてくる。

  初東雲 珊瑚の薄紅 光帯び

刻一刻、赤味の広がる空に黄金色の光の矢が無数にまぶしく四方、八方に輝きを放つ。

見る間に、赤い太陽が顔をあげてくる。ぐんぐん、全身をたちあげる。

  初晴れを 賜り なにも言う事なし

いまここに、わたしが「生かされている」幸せに、胸の迫る思いになる。

止まることなく陽は昇り、輝きが空いっぱいにひろがっていく。山も木々も鳥も人も動きはじめる。今年は、今から始まる。

新しい年のはじめの感動を忘れないで、小さい命を大切に生きなくては! 思う。

  初日まだ 真紅のままに 光増す

  光浴び  温き福茶を  頂きぬ

  ほぐれたる 結び昆布も おせちなり

  ごまめ噛む 歯の健やかを 幸とせむ             04.1.1