『おしんの筏』と嫁にいった娘のこと 牛山通男

            小林綾子さんと21年ぶりの再会

○伊東四朗の心境 
---かっチャァ!   かっチャァ!---  雪の最上川、『おしん』を乗せた筏が今、岸をはなれる。

しぶきにびしょぬれ 筏から手を伸ばし 声を限り、母を呼ぶ『おしん』・・・

雪の土手、 ころがりながら わが子を追う母、 『泉ピン子』・・・

 と、遥かな山の嶺、六歳のわが子『おしん』を材木問屋の子守奉公に出した
冷酷非情の父、『伊東四朗』が ひそかに『おしん』を見送っている・・・・

だいぶ古くなったが 日本中を泣かせた ご存知NHK朝ドラ 『おしん』 最高の場面である。

・・・・・・・・・・・・・・

 さる銀行の外国資金部で秘書をしていた うちの娘が 職場結婚することになった。
小林綾子の名演技に 日本中が 泣いた 1983年〔昭和五十八年〕のこと。
 
 嫁入り荷物も出し終わってガランとした挙式の三日前、婚礼の媒酌をお願いしてある・・娘が秘書で
お仕えしたこの銀行の重役さんが、どうゆうわけか 「花嫁の父」を 慰問してくださる席を
銀行本店近くの パレスホテルのてっぺんに 設けてくださった。

まこと素晴らしい夜景と ブランディに酔った私は 今の気持ちを
     ・・・筏を見送る 父親の心境です・・・
と重役さんに 申しあげたものだ。
 
『秘書を取られた』この重役さんは グラスをもったまま 黙ってうなずいて下さったが、

翌朝、横浜の 私の会社で若い社員たちにこの話をした途端、
彼等は口々に こう言うではないか、
    
・・・部長 ! そりゃ 「おしん」の見過ぎダァ・・・

○赤い靴履いてた女の子・・
 結婚後一年間、銀行の京都支店勤務で 伏見の社宅にいた娘婿一家が
突然デイリングのトレーニーとかで 紐育に転勤になった。

現地でアパートを探して 船便で送る家具と荷物が着くまでの二ケ月、
娘婿は 『単身赴任』、娘は社宅と 先方のご両親のお宅と 私の家の
まだ 全くそのままにしてある彼女の部屋とを、行ったり来たりして
暮らすことになった。

普通 嫁にいった娘が こんなに長い間家にきて、朝晩話が出来る事など
あり得ない話で、私は始め僥倖と喜んだが、よく見ていると それは間違いだった。

 毎日毎日、紐育行きの買い物,調べ物、紐育への発信と 朝方に鳴る紐育からの
電話待ちなど、そんなこんなでもう一杯の 子供をみていると これはもう 一日も早く
紐育に出発させてやるべきだと 考えるようになっていった。

 一年前、結婚式の時は 毎日カレンダーを眺めては 溜息ついて いたものが 
今度は同じにカレンダーを見て、出発までの幾日を 一刻も早かれと念じたのだから、
妙なものである・・・

○『横浜の波止場から』ではなく・・・
 鰻の蒲焼、ちりめんジャコから 明太子、蕎麦にうどんにたこ焼きと 料理の材料ばかり 
ぎゅうぎゅう詰めに詰め込んだ 超大型のトランクを 紐育ケネディ空港出口まで
彼女ひとりで押す為に

 ペッタンコの『赤い靴』、
ひっきりなしの アナウンス  ザワザワした雑踏で
・・・『横浜の波止場から』・・・ の歌の情緒とは
似ても似つかぬ 風情のない 成田北ウイング17番ゲートから

娘は JALファミリーサービスの異人さんに連れられて、

元気に手を振り ニコニコと アッという間に いってしまった・・・


  ・・・便りによると、 紐育のテレビでも このとき『おしん』を 放送中で
今 ちょうど 加賀屋がつぶれる あのあたりだ という・・・・

なんか あちらのほうが このごろおくれているぞ・・・と思ったのは 八つ当たりかも・・・・



○小林綾子さんと 21年ぶりの再会


 ・・・・あの日から 21年たった

 すっかり歳をとってヨタヨタ モタモタ パソコンたたいているボクの前に
ある日突然 32歳になった 小林綾子さんが現れたときには  もうびっくり仰天した。

といっても それはこちらだけの騒ぎ・・・ 彼女は NHK教育テレビ

「とってもやさしい 中高年のためのパソコン講座」

去年今年と 3回見事に講師をこなしていらっしゃる・・・

 『おしん』ドラマでは 膝までしかない 木綿の着物 最上川の 雪としぶきにずぶぬれで
流れてゆく筏の上 手を一杯伸ばし 必死に かっチャァを呼び続けたあの少女が

・・・突然 32歳の濃艶な 女性になって出現 パソコン講座を進めるから こちらは混乱 あせってしまう。

 よく見ていると ほっぺたや 鼻のまるまるしたあたり 確かに『おしん』の面影はあるのだが、

やっぱり 昔の彼女のほうが 『凄み』はあったなぁ・・・ と思う。

                                      04.3.6
 表紙に戻る