シドニー湾攻撃隊指揮官 松尾敬宇大尉と
その母堂 まつ枝さんのこと
   牛山通男

ご父君が兵学校生徒だったある女性への手紙


鳳坂 様

うしやま です。

いつも IT教室で 御世話になっております。 
お元気のことと 拝察いたします。

貴女様の御父君が 終戦時 海軍兵学校の2号生徒であられたことは
ときどき伺っておりました。ボクも 娘がおりますが ボクの戦時中の
生きざまには ほとんど関心を示さず 質問もいたしません。

これはひとえに ボクの子供たちへの配慮不足の 結果で
鳳坂様の お話を伺うたび反省をしておりました。

そして 鳳坂様が あの 戦争の最終場面に当時の 若者たちが
なにを思って生き なにを心のよりどころとして 死んでいったか 
御父君のお話をもとに熟慮なされ はっきりと信念を確立なさっておられますことを
常々尊敬いたしておりました。

いままであまり人に話したことはありませんが、ボクにはこんな 想いがあります。

ボクは戦争中 海軍工作学校で 二人乗り特殊潜航艇の製作に接近、
海軍工機学校では 純白の特攻隊員と同宿でした。

あの特殊潜航艇が昭和16年12月8日開戦の日 太平洋真珠湾米海軍基地に
5隻が進入 かなりの戦果をあげたことはご存知のとおりです。

そしてその半年後 昭和17年5月31日 シドニー ジャクソン湾の
オーストラリヤ海軍基地を3隻が奇襲しました。

示し合わせて同時刻に地球を半周したインド洋の マダガスカル島 ジエゴスアレス港の
イギリス海軍基地を2隻が攻撃しています。 

これは確実に当時の連合軍側を震撼させた奇襲作戦でした。

・・・それから55年たった秋の日 ボクは オセァニァに ひとり旅、
ジャクソン湾のオペラハウスとミセス・マッキンレー岬の東方の戦闘地点を確認してきました。 

現地の『War-Memorial』には あの攻撃後撃沈された 松尾大尉艇、
中馬大尉艇の2隻からから収容した4人の日本軍人の遺体を日本国旗に包み、
オーストラリヤ軍港司令官アーヘッド・グルード少将の計らいで
海軍葬をもって葬り 儀杖隊の敬礼 弔銃が発射された・・・とあります。

そしてこの4人の遺骨は8月13日戦時交換船『カンタベリー号』に安置して
アフリカに運び『鎌倉丸』に引渡され 10月9日 日本の横浜港に
無言の帰国』をされました。

この第2次特別攻撃隊指揮官 松尾敬宇大尉は熊本県山鹿市出身で
突入時24歳でした。
開戦時のハワイ真珠湾攻撃第1次隊の指揮官付をも勤めておられますから
早くから覚悟をされておられたことが 推測されます。

松尾中佐が戦死されてから26年後の昭和43年4月24日 
ご母堂まつ枝さん83歳は 松尾中佐のお姉さんに当る娘と共に
愛する息子の眠るシドニーへと 旅たたれます。

現地は秋の終わり お二人とも 和服姿でした。

 『とつ国の 熱き情けにこたえばや 老いをわすれて 勇み旅立つ・・・

4月28日 美しいシドニー湾の岸壁に立たれた まつ枝さんは
松尾中佐の許婚だった女性から託された手紙で 小石を包み
青い海に向かって 懸命に投げたそうです。

それから12年後の昭和55年1月24日 まつ枝さんは95歳の生涯を終えられます。

1月27日の葬儀には松尾中佐をたたえ 母堂を慕う400人が全国から参列 
オーストラリア大使館からの弔電を始め 弔辞が次々に述べられ
葬儀は3時間におよんだそうです。

これはまつ枝さんの歌の下の句です。

・・・・・散れと育てし花なれど 嵐のあとの 庭 さびしけれ・・・ 

松尾大尉艇と、中馬大尉艇の2隻は引揚げ後 復元されて『War−Memorial
展示、攻撃成功したもう一隻は港外に脱出したらしく 今も不明 未帰還です。

いつも考えていることですが、この3次に亘る特殊潜航艇の奇襲は 
今世界の各地で頻発している 『自爆テロ』とは 絶対に違います。

当時の伏見宮博恭軍令部総長と山本五十六連合艦隊司令長官は
必死隊』は 絶対にいかんと 認めなかったそうです。

3回の奇襲作戦の全部が 攻撃後 乗員を回収する策と場所を
緻密に設定し 母艦群が 何日も 待ち続けています。

事実インド洋マダガスカル島奇襲の第3次作戦では 2名の乗員が
攻撃のあと島に上陸 密林の山を徒歩で越えて、
母艦の待つ場所までゆくのですが、途中敵の大部隊に包囲され
万策尽きて 自ら突進斬り死にされています。
・・・・・

ボクがオセァニァを尋ねたのは晩秋で 世界で最も美しい港と謂われるシドニーの
ハーバー・ブリッジ、オペラハウスのあの湾は 全くの平和で 光り輝き
松尾大尉たち 25歳にならない 六人の『水漬く青春』が 波に静かに揺れていました。


失礼します。

03.9.6

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