海防艦『屋久』吉野航海長追悼記 牛山 通男

イラク戦争で改めて想いおこす
・・・戦病死した女子同級生 石井さん  と
・・・戦死された 吉野分隊長のこと・・・



ふるさとの同級生女性への手紙

上 田 泉 美 様

うしやま です

お手紙頂きました。
沖縄にご旅行なさった由 すごい行動力ですね。

農協旅行の由 あれは面倒見のいい組織のようですね。 
御地のように 土地の肥えた 裕福な農村のお年寄りのほうが
大都会に小さく暮らす老人より 今はずっとずっとお元気で
皆さん恵まれていて 七十歳後半の今日でもハワイや ヨーロッパに
どんどん御旅行なさっているようですね。

あなたとボク達同級生が あの千曲川のほとりの
小学校に入ったのが昭和8年、戦争が終わったのが18歳の時です。

それなのに今 同窓会に出てみると 戦死した男子が3名 ほかに
なんと女性がおひとり 半過「ハンガ」部落の石井さんが
野戦病院の看護婦さんで戦病死されていたことを知らされます。

だから貴方がこんどの旅で『ひめゆり部隊』の女子学生が自決されたあの地下壕と
追い詰められた女性達が怒涛の海に飛び込んだ最南端喜屋武岬の
あの断崖に立ったときの心の辛さが ボクにはよく分かるのです。

先日NHKのクローズアップ現代で 
大勢の若者がホームページに書き込みをした
『若者が見つめたイラク戦争』千人忌『記』をみました。 

ひとりのおばあさんが 自分が戦争を体験した年とおなじ年齢の孫に
送った文章とそれを読んだ九歳の子供が
・・・なぜいま 地球上で人が人を殺しあうの・・・
と書いた手紙が印象に残りました。 

イラク戦争がおきたのが契機で ボク達は又 六十年前の
太平洋戦争で死んでいった 同級生や先輩を
思い出し・・・人がひとを殺すことの やりきれなさを
もう一度考え直すことになりました・・・

『南の島』といえば ボクには こんな 思いがあります。

この春放送された NHKの朝ドラ 『満天』で毎日のように
『屋久島』と出るたび ボクはある反射反応がでました。

58年前のあの戦争が終わる直前の日に
海防艦 『屋久』の航海長 27歳で戦死された
吉野教官を 思い出すからです。
 
ボクは16歳 中学4年終了で 高等商船学校に入りました。
太平洋戦争が戦況不利 世情騒然の時です。


    
吉野分隊長と入学直後の12分隊全員

当時 東京と神戸にあった 商船学校をひとつにするため 新しく出来た
その学校に入ってみたら 600人の600番目でした。

50人づつの分隊の12分隊の50番目が ボクの席。
生徒館2階の 寝台も 洗面所で歯磨きするコップを吊るす釘も
一番ビリでした。

飛行機の格納庫の様な大食堂で座る席もボクは一番ハシ。

真ん中の5分隊には ・・・人生はワンツーパンチ・・・
3歩進んで2歩下がる・・・ の名曲『365歩のマーチ』を作詞して
後に水前寺清子や北島三郎の親分になる
星野哲郎生徒が 座っていました。

とにかく恥ずかしくて 恥ずかしくて 母へのハガキに
もう嫌 帰りたいと書きました。

最年少教官で12分隊長だった吉野先輩が 検閲でそれを読み 
ボクは教官室によびつけられました。

・・・そういう考え方はやめろ・・・といわれました。
・・・結果を出せばいいんだ・・・と

まるで 身内の 弟にいうような話し方でした。

この吉野海軍少尉は神戸商船学校を出てすぐに召集された24歳。

やたらと 生徒をどなったり 鉄拳を振るう ほかの教官とは違って 
吉野さんは静かに 後輩に話しかけ こちらの いうことも聞いてくれました。

吉野さんのあのひと言でボクは立ち直り どういうわけか
その後2回あった分隊編成替えの都度自分でも信じられない程
コップを吊るす クギの位置が上がってゆきました。

・・・ハンコは名前の下 頭を少し左に傾けて押せ ・・
海軍の敬礼は艦艇の狭い空間を意識して ヒヂをはらず
指は揃えて立てる・・ など
今でも 記憶に残る あの人らしい 優しく平和な分隊訓話でした。 


  三保の松原海岸で地引き網 吉野分隊長も・・・

このすぐあとに 吉野さんは南の海で戦死されるのですが 
その瞬間がボクには はっきりと 想像できる こんなことがありました。

学校に入ってまだ三ケ月目の夏 ボク達は神戸から 練習船『海王丸』に乗り
瀬戸内海を航海実習しました。吉野さんが引率教官でした。

高松沖で仮泊。正装してカッター漕いで上陸、ラクビー選手だった吉野先輩が
先頭で金毘羅さんの石段 785段を 一気に?駆け上がりました。

あの頃でも瀬戸内海は 今の 東名高速のように 上下線を
全速で行き交う船で 壮観でした。 そのデッキに生徒を集めて
吉野さんの講義が始まりました。・・・と突然 

・・・今この船があの船と正面衝突して 沈みかけたら どうする?
牛山生徒どうする?・・・
たまたま最前列にいたボクを 吉野さんは指名しました。

山国育ちですが 泳ぎはできたほうで ボクは
・・・なんでそんな分かりきったことを聞かれなきゃ
ならなぃんだ? と少しムキになって 大声で答えました。

 《飛び込んで 泳ぎます!》

 いかん いかん!吉野さんは顔の前で手をなんども 振りました。

・・・いくら船が沈み始めても 『艦長』の指示がある前にとびこんだら 
『逃亡』といわれる・・・

落ち着いて 『艦長』の命を待つて身を処さなくてはいかんよ・・・
吉野さんから  説教されました。

そんな・・・今のこの船は『艦』ぢゃない・・オレはまだ『軍』ぢゃない・・
あの時うつむいて首をすくめながら 16歳のボクは思っていました。

むしろ あの時吉野さんは 『市民』から『軍人』になったばかり・・・ 
吉野さん自身の 自戒の言葉でもあったように 思います。

このあと学校の上層部が様変わりし 強烈に打ち出された《海軍教育》に
後輩をかばって異論を唱えたその為か 吉野さんに
『横鎮』・・横須賀鎮守府付・・に転勤命令がきました・・・そして・・・

海防艦「屋久」の航海長で終戦直前の昭和20年2月23日、
仏印沖で敵潜水艦と交戦、吉野さんは 壮烈な戦死を遂げられました・・・

・・・『帽振れ!の号令で 校門に並んだ後輩が一斉に帽子を振る前を
挙手無言のまま去ってゆかれた吉野さんのお姿が今でも 脳裏に 鮮明です。


あの太平洋戦争を『海』の面から見ると 開戦から 中期までは
空母と駆逐艦の互角の戦いでしたが 昭和19年以後の後期では

日本艦艇は壊滅し戦闘が本土周辺に接近したので
戦争継続に絶対必要な 油を運ぶ輸送船団を
南の産油地から 日本まで護って帰る任務の海防艦が
日本近海で待ち伏せする米潜水艦や航空機と熾烈な戦いをする
場面となってゆきました。

この裏方ともいえる 海防艦は 建造された総数が170隻。
乗り組む士官は 艦長以下高等商船学校出があてられました。

『民』の商船士官が召集されて『軍』士官となり
その人数は2,700名におよんだそうです。

米軍がフイリッピンを制圧 日本本土と南の産油地帯を切断した後は
『ガソリン一滴は・・血の一滴・・』で 内地の燃料は全くの枯渇。 
シンガポールから日本へもってくる石油は ほとんど『特攻輸送』 と
なってしまいました。

昭和20年1月頃から タンカー船団とその護衛艦が米潜水艦だけでなく
中国大陸基地からの米航空機攻撃で つぎつぎと撃沈され
死にもの狂いで かいくぐり 門司まで逃げ込んだタンカー船団が
表彰されたほどでした。

だからインドシナ東岸はもう 日本油槽船の墓場になりました。

吉野さんの海防艦『屋久』は昭和20年2月16日 
シンガポールから ガソリンを満載した 『ヒ88H船団』の油槽船四隻を
小型護衛艦二隻とともにエスコート 敵の潜水艦からの攻撃を
『右』に限定するため 印度支那海岸ギリギリ沿いに 之字航法で
日本に向かいました。

2月23日船団がカムラン沖を過ぎた時先回りして待ち伏せしていた
米最優秀潜水艦ハンマーヘッドの艦長が 船団をかばって右側をゆく
『屋久』を狙って撃った2発の魚雷が『屋久』の船首から中ったのだそうです。

『屋久』はほとんど 轟沈だったそうです。

航海長吉野大尉は 最後の最後まで
沈んでゆく艦橋に立ちとどまっておられたであろう お姿が 
ボクには目に浮かぶのです。


   
嗚呼 吉野さん

この潜水艦ハンマーヘッドは『屋久』のほか 海防艦84号
大型貨物船タンカー国星丸、旺洋丸、羽後丸、鳥取丸など
あの戦争中に日本船10隻34,710 トンを沈めているそうです。

あの日から58年がたってしまいました・・・・・

看護婦さんで亡くなった石井さんは18歳、勿論独身でした。

吉野先輩も独身で戦死。お二人ともお身内の方々は
少なくなります。

吉野さんが戦地に発つ朝 大阪駅のホームで発車する二等車の窓際に
見送りに来られた ひとりの女性がおられた という
情報もありますが よくわかりません。

戦死して少佐になった吉野さんのお墓は尼崎にあるそうです。

看護婦さんの石井さんのお墓はあの千曲川に迫りだした半過「ハンガ」の
崖の上にあると思います。是非一度お参りにゆこうと思っております。



貴女様の御健康を遥かに祈りあげるものです。

失礼します。 03.6.24

表紙に戻る