80バーさんのつぶやき

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 2001.12.25

クリスマスの思い出  2001.12.24.

  ラジオのクリスマス・ソングを聞きながら,子供の頃(昭和10年頃)のクリスマスを思い出している。あの頃,日本は皆貧しかったけれど、祖父の代からクリスチャンだった私の家では,クリスマスは,特別の日だった。

午前は,特別の祝礼拝があって、大人も子供も一緒に「聖しこの夜」等の賛美歌を歌い,にこやかな牧師さんのお話を聞き,世界中の物皆の幸せをお祈りした。

お昼になると,(今,考えるとおかしい話だけれど)五目御飯の皿盛を全員でいただき、その後は「祝会」と言ってお楽しみ会があった。子供達は,シーツを被った天使、ふろしきを着た三人の博士、長い杖を持った羊飼いたちに扮して、キリスト生誕の劇を神妙に演じる。馬小屋にマリアさまと籠の中に幼キリストが真中に座っていた。その他大勢は、合唱団で、次々と賛美歌を歌った。

それから、大人達が、いつもの顔をどこかへ置いてきたみたいな達者なお得意芸を披露する。ビックリするやら、可笑しいやら。今でもその時の手品のおじさんや、座敷箒を三味線に見立てて都都逸や、小唄を唄った人、二人羽織で、お蕎麦を食べた姿だのを思い出して楽しい。あの方達は皆もう天国へ行ってあちらでヤッパリ箱から鳩を出したりしているだろうか?  父がその頃、日曜学校の先生だったから、最後にサンタクロースに扮して、皆に白い袋からプレゼントを手渡してくれた。鉛筆二本とキリストのカードだったけど。

あの頃は、オーブンなど無かったので、蒸しパンのケーキを切って分けて貰った。くるみとか、柿などの果物が小さく切って入っていた。何が出て来るか?ワクワクした。

夜、枕元に靴下を置いて寝た。朝起きると、ささやかな、手作りの手袋とか、綿入れのチャンチャンコが置かれていた。母が、長いことかけて、用意してくれていたのを知っていても「サンタさん、ありがとう」と喜んだ。

いまは、何もかも豊かで、あの頃とは別の形のクリスマスになってしまった。

私の子供の頃のそれは、子供も大人も、「人の心を優しく、みんなを大切にしよう。」とする行事だったように思う。

 

         

 

        

2001.12.24

  木瓜の蕾      2001.12.24

 我が家の木瓜は、黒木瓜(くろぼけ)という珍しい種類だそうだ。亡夫が大事にしていたので 此処へ越してくる時に、ちょっと上等な鉢に庭の土をそのまま移して抱いてきた。

花が咲くと、一番外側の花弁が、黒味を帯びた濃い赤色なので、黒木瓜というのかもしれない。 ベランダに置いて毎日眺めているのだが、今朝蕾を見つけた。ひとつは子供の小指の先ぐらいで、少し色づいている。あと、四、五輪数えられる。びっくりした。

水は欠かさぬように気をつけていたが、枝の剪定もせずに二年。自由気ままに枝を伸ばして、奔放に延び放題の姿になっている。去年の葉もまだ沢山ついているので、今切るのは可愛そうだ 。「よく、生きていてくれてありがとう。」

この二年、主人の喪に服していてくれたのかもしれない。今年は、南面するベランダで、早々と、花を咲かせてくれるのか。

前の家の庭では、雪を被っても植えっぱなしで、三月にならないと蕾も出なかったのに。何だか、可愛くて嬉しくて、重かったけれど部屋の中に取り込んだ。主人の写真の見える日向に置いた。

さて、初めの一輪は、いつ咲くかしら?

 

  

    我が家の木瓜。

2001.12.21

  12月21日、初雪が降った。

予報で「今日は、雪になるかも?」と、聞いてはいたが「うそ?」位に思っていた。

それでも、明日は冬至だし、かぼちゃやゆづを買って置こうかと町へ出かけた。曇ってはいたがまだ雨は降りそうではない。クリスマスや年の暮れのセールが賑やかで、楽しみながら眺めて歩いて、12時近く、スーパーを出るとショボショボと小雨が振り出していた。「その内、白くなるぞ」と言いながら、おじさんがすれ違って行った。この土地に長く住んでいる人らしいから、「そうかもね!」と納得しながら道を急いだ。風が冷たい。

部屋に帰って、荷物を片付けて居る内にほんとに白い粉のような雪に変わってきた。ベランダに出てみると、葉が落ちて竹箒をたてたような林も、霞がかかったようになりその先の鉄塔も、山べりにはりついた住宅も、白い雪の流れの中に隠れてゆく。

この辺は、都心より気温が5度以上低いと言われている。粉のような雪が刻々大きな粒になり、ボタン雪のような降り方で、家の屋根もビルの窓も見ているうちに白く覆われていく。 ヤッパリ、いいなー、雪景色!

東京では、去年より17日早い初雪だという。 一時間ほど、窓にはりついて、音もなく舞い落ちてくる雪にみとれていた。

 「北国は、今日も吹雪と たよりあり」  多摩の雪は、夕方には晴れてしまいました。

   

2001.12.17

  陽光の恵み    2001.12.17

この所、ベランダの朝の気温は、2度C位が、続く。

今年は、北海道や、東北、北陸など雪がはやく、もう、数十センチつもったとテレビで見る。地球全体では、気温が大分上昇しているらしいが?私など老人は、やっぱり冬は寒いもの、と思って来た。子供の時は、寒さなど気にしなかったし、戦争中は、我慢の連続、此処へくるまえに四十年居た家も冬の台所は北側で、食事の支度は寒いからすぐ温かい煮物ばかり作っていた。  
この、マンションに移って正南向きの六階の部屋は、居間であり、台所であり、寝室でもあり、お天気でさえあれば、一日中、しかも夜中までも常時22度C以上の温度で、毎日日向に広げた布団は、ホカホカ温かく気持ちよく、部屋うちに取り込んだ草花も、緑は濃く、赤、白、ピンクの花たちも次々に笑顔を見せてくれる。
主人の務めで十数年暮らした秋田での冬の生活もときどき思い出すが、地吹雪の舞い上がる毎日の中で子育て、食べ物の調達、夏のうちからストーブの薪の用意  など、ストーブにへばりついて過ごした約半年。「そんな、日々もあったっけ」と遠い夢のよう。
今のところは、昼も夜も 暖房機を使わないで着る物も軽い。何と、幸せなことだろう。

「お陽さま、ありがとうございます」明るくて、あたたかくて、すきなことを好きなようにしています。テデイベアとトトロと私の三人組みの毎日は陽光の恵みの中に、幸せイッパイです。感謝です。

 

    

    

  

2001.12.10

冬 近し  2001・12・10

今朝、ベランダの寒暖計は、5度C、いよいよ、冬が来る。近くの林の様子も、葉の色が少しずつ黄から茶褐色に変わってきたなと思っている内、大分落葉して、木々の間が、骸骨が並んだように透けてきた。

遠景の山がはっきり見えて、張り付いたように並んだ家々に灯かりが灯る。「あんな所に鉄塔が建っている。 」「アララ、電車が通るのが見える」日ごとに視界が広がって、毎日新発見の連続だ。

晴れた日に、ベランダに差し込む陽射しも方向が変わり、昼頃には部屋の中まで、陽がさしこみ、布団を広げて置けばベランダの竿まで運ばなくても暖かくなる。

大きな鉢に植え付けた水仙も芽を出した。水栽培のヒヤシンスの根も充分張ってきた。花の鉢を毎日動かして陽の当たる所へ置いてやり、水やりの時間も陽射しによって変えてやる。 夏の間楽しませてくれた花たちマリーゴールドやラベンダー、鶏頭にホトトギス、・・・・次々と実になり、すがれていく。 たくさん、お礼肥えをして、「また、来年もたくさん咲いてね。」と願う。福寿草も桜草も春ランもみんな亡夫が愛していたものを大事に育てている。 今度は、赤いポインセチヤとシクラメンはピンクか、白を買ってこようかな?  夕暮れも早くなってきた。4時半になるともう細い月が薄く光りだす。

「ひたすらに流れていく時間 」を追いかけながら平和に生きていける私は本当に「幸せ者」だと思う。

 

                

            

2001.11.21

  流星群 乱舞  2001・11・19

見ました、見ましたよ。生まれて初めてすごい流れ星を見ました。 それも、ビックリ

するほど沢山、たくさん! 11月19日の早朝です。 午前3時少し過ぎベランダの椅子に座ってどっちの方向から流れるかしら?と思う暇も無く、薄い光の帯が東から西へ、サーッと流れて消えた。「ウソッ?これが流れ星?」・・・・これが、わたしの第一声。

しし座流星群が、地球に最接近して、地球ダストを突き抜ける時間は19日の1時から、3時頃と、新聞で見ていました。一番目の光の帯がスーッときえたあと、パッと光って尾を引いて南へ消える。
すぐまた光ってはスーッと今度は西へ流れる。
強い光、太い帯、弱い光 、細い帯。光っては流れ、又光っては流れる。上へ下へ、西へ南へ飛ぶは、飛ぶは。
「イッチー」「 ニーッ」「サーン」と数えるのが忙しいほど飛ぶ。後で聞くと、一時間に5000個も数えられたとか?

私は、子供の時から、「流れ星を見ると幸せがくる」「流れ星が消えるまでに願い事を言い終わると適えられる」と聞いていたけれど、一度も見ていなかった。「星に願いを」という曲が大好きでもし流れ星を見たら何を願ったらいいかしら?などと考えていた。
でも、今まで星に幸せを願うような不幸ではなかったのだろう。

「50個まで見たらもう止めよう」と思っている中、54!55!・・・・・まだまだ飛ぶ。

80まで数えたら寝よう。まだ・・・81, 82、少し間があいて・・・83、 84・・ここまできたら、84歳ぐらいまで生きられるかな?あら!85、86・・・そんなに生きなくてもいいよ。
結局、90も超えてしまった。身体はすこしも寒くないほど、興奮していた。

ベランダで居ながらにして最高の幸せを味わった。

  

 

        

 

2001.11.17

昇仙峡の紅葉    2001・11・7

 [紅葉 真っ盛り] の報に、昇仙峡へ連れて行ってもらった。

快調に高速道路を進み、甲府から、富士川の支流荒川に添う山道に入る。

涛涛と白い巨岩を乗り越え流れる白い水の谷に沿って道が続いている。両岸は、奇岩の連続で、その上に緑、黄、赤、褐色の木々が覆い被さるように生えている。
澄んだ空気、川のどよめき、木の葉を揺する風のざわめき、自然のいぶきの中にドップリと漬かる心地良さは又格別。
軽装にリュックを背負ってた中年の夫婦がさっさと歩いている。若いカップルも、初老の人達も対岸の山や、石に砕ける水しぶきにカメラを向けたり喚声をあげたり、皆楽しそうに歩いている。
老人を大勢乗せたトテ馬車が、何台もポックポックと進んできた。 馬の手綱を手繰りながら岩の名前など説明している。
「へーッ」「本当にライオンみたいだ」と右をみたり左を見たりいちいち頷きながら皆楽しそう。車は止まって馬車を優先させる。
   年をとっても、元気で美しいものを見たいという気持ちがあれば、この頃は何処へでも行けるようになった。せいぜい楽しみたいと思う。

此処、昇仙峡は、秩父多摩甲斐国立公園のなかにあって、観光百選峡谷の部で第一位になって新緑の頃、紅葉の頃が特に有名な観光地という約 4キロに渉る峡谷沿いの道である。

川の中の巨岩奇石は花崗岩で白く、飛び散る飛沫をより一層美しく見せる。谷に突き出した真っ赤な紅葉の美しい事。松や樫などの緑や黄や茶色なども趣を添える。
車を降りて細い道を歩いて近く寄って見る。昔覚園というお坊さんが川の上に突き出した岩の上で座禅を組んだという覚園峰という見上げるような
巨岩がある。頂上は畳が数枚置けるくらいとか。
仙峨滝という高さ30メートルを流れ落ちる滝の真上まで歩いて登った。
滝を、下から見て、真上から見て、よどみを覗くと20センチほどの岩魚も群れていた。人が渉ると揺れるつり橋も渡って写真を撮って来た。

久し振りに山の空気に浸って、心も洗われた気分になった。壮大な自然の営みの中で元気を貰って、幸せな一日でした。

    

   

    

2001.11.3 

電車に乗って   2001・11・3

インフルエンザの予防接種に行くために、朝の電車に乗った。

ちょうど通勤時間帯なので、一台見送って座れる車両に乗れた。始発駅に近いから大丈夫と甘く考えていたが、この所余り出歩かなくなっているので調子が狂った様だ。都内への通勤者らしい人たちが、続々と乗る。座れて安心。

先ず、車内の吊り広告を彼方此方読む。雑誌広告や、旅行勧誘など、軽い話の種になる。次は、駅ごとに乗車して来る人たちの服装に目が行く。季節の変わり目なのでそれこそ千差万別。半そでのTシャツの人がいる、セーターにマフラーまで巻いた冬支度の人も居る。キチッとスーツに身を整え雨傘まで用意している人も。若い人たちの色とりどりの絵や字が胸いっぱいに描かれたシャツやジャケットが今流行中らしい。そして、皆、携帯電話を手にして、耳に当てている人、画面を睨み付けている人、しゃべっている人。隣に座った若いビジネスマンらしい人は、細かい英字のパンフレットを広げている。耳にはイヤホーンを付けて何か聞きながら。仕事は何処も大変なのだろうな。ご苦労様。黒一色のシックなスーツの女性はハイヒールですらりと立ったまま朝刊を細く六つ折にして読んでいる。これはほんとのキャリアウーマンきっとテキパキ仕事が出来る人だ。

 「つめてください!」と突然大きな声がしたのでそちらを見ると、大きな荷物を三つも持ったおばーさんが男の人達の前に立っている。絶対座るんだという気迫が見える。私には出来ないな。少しの隙間を見つけても[すみません。少しつめて頂けませんか?]ぐらいにしておけば、この頃の若い人達は、言わなくても代わってくれるのに。

 さて、今何処かしら?またシニア・-モーメントで乗り越したら困る。車内放送をしっかり聞こう。[次はー、〇〇にとまりますー。〇〇方面はお乗換え・・・・・、皆様の付近に不審な物がありましたら、乗務員かガードマン にお知らせください」 当今の世界情勢を反映したアナウンスが付け足されていた。 
電車の中では、二兎も三兎も同時に追っている人達でいっぱいだ。怖い世の中になってきた。

 

    

 2001.10.26 

 『民謡大会』へ  2001・10・19

 全国から、選りすぐられた人たちが集まって、四日間国技館で開かれている民謡大会なので、両国駅周辺は活気づいていた。前日の予報では、12月の寒さになりそうだったので沢山着込んでそぼ降る小雨のなか電車に乗って出かけた。

幸い、正面の二階の桝席に座る事ができた。 今日は、若年と高年者が出演する日で、明日は、青年、その次は、熟年者・・・とプログラムに名前がズラーッと並んでいる。

若年(こども) の民謡の澄んだ高い声もまた一興、高年者( 70以上か?)は、さすがに年季が入っていて、シャンと腰が伸びていて、美しい衣装にまぶしいライトがよく映える。

豊かな声量、小粋な節回し、自信の溢れたおのれを謳歌している。

民謡は、土地、土地の人のきつい労働の中で生まれてきたといわれる。仕事の苦しさを時に和らげ、元気を呼び、時に生まれた土地の風景をたたえ、その歌声は、人に伝わり人を集め つどいの中に楽しみが湧き、やがて手拍子とおどりの輪が広がっていったのだろう。
数十人の出演者をプロの審査員が採点して順位が決まり、オリンピックの選手みたいなメダルを衣装の上から掛けて見物席の間を歩き回っている誇らしげな顔!でも皆ほんとにうまい。そして背筋をピンと伸ばした姿勢、輝いて生きている高年者を『いいな』と思った。 おどりも、とてもよかった。それぞれ、練習や衣装は苦労した事だろうが、良く揃って踊り手、唄い手、お囃子も一級品。やっぱり、佐渡おけさ、三条凧ばやしはすばらしかった全国各地の土地柄、人柄まで表れて、踊っている人たちの心の歓喜まで感じられた。

『ユーラシアからのメッセージ』として登場した中国古典琵琶(イ族舞曲)と中国琴、モンゴルの民謡と馬頭琴  の演奏は珍しく、眼を眼をみはり身じろぎも出来ないほどだった。  私は、踊りも唄もできないけれど、これだけ感動させて頂いた事。良い一日でした。

 

2001.10.6

   「力持ち」廃業  2001・10・6

 久し振りに、バスに乗って買い物に出た。

窓からの景色もすっかり変わって、街路樹の葉も色を変え、家、家の庭に咲く花たちも、コスモスや萩、色とりどりの小菊たちになった。 乗客の服装も「肩だし」「足だし」が、少なくなっている。私も、長袖のカーデガンと長いスカートでバッグも籐製をやめて、濃い色の布製に代えて来た。「いいなあ」もう街の空気がすっかり秋になった。  
次は目的地のアナウンスに気がついて、今までと同じように「降車の方はこのボタンを・・・・・」のブザーを人差し指で押した。『アレッ、灯かりが点かない。どうして?』 慌てて、立ち上がって今度は太い親指の腹で、『エイッ』と力をいれて押した。ついた・・・なんと、私の指の力がこんなに弱ったんだ。  田んぼや畑や山仕事で、体力、力持ちには自信があったのに。 
そういえば、風呂上りの缶ビールのプルトップも開かない時が有る。 これも、老いの姿と言わねばならないのか?

  みずひきの 葉裏にか弱き かねたたき

  ヒアシンス 水栽培して 秋深む

    

  2001.10.3

十六夜「いざよい」   2001・10・3

 十五夜の次の夜の月を、「いざよいのつき}という。十五夜の月の出より時間がおそくなる。十七夜はもっとおそくなって、『立待ち月』その次の夜は『居待ち月』その次は、『寝待月』と呼ぶ。月の出を待って,立ったり,座ったり、終には寝転んでまで。 
昔の人 が、毎夜澄んだ秋の月を愛で、全身で自然を受け止めて 心豊かに楽しんでいた姿をうらやましく思う。毎夜、月の出が遅くなり、形が変わっていくのを覚えて、季節の変化にも対応して行ったのだろう。  
 東京都内の小学生に『お月様見たこと在る?』『月が出てくる所を見たこと在る?』『どんな形したお月様を見た?』等、などの質問をしたことがある。『無い。』『無い。』  
 高いビルや、密集した住宅地にいれば殆ど月に関心はない。見たことの無い子が多かつた。不夜城などと言う光いっぱいの街中では殊にそうだろうと素直に納得出来たことだった。 スペースシャトルからの映像で、宇宙や、地球の勉強をしているのだから。    やっぱり私は 『 化石かな?』

 常識とか 教養とか、言葉まですっかり変わってきた。
新月、三日月,上弦、下弦の月などの、情緒のある言葉を見なくなった。  暑さ、寒さ、雨、風、雪などやっぱり人間は自然の中で生かされているのに。

 

   

2001.10.2

   「同居者が、出来ました。!」 2001・10・2

 「何、それ?八十ばーさんが・・・・・」なんて思いましたか?  私の、定席のロッキングチエヤーに、両足を投げ出して、右手を小粋に手すりに掛けて、悠然と腰掛けています。 身の丈五十数センチメートル、柔らかな茶色のモヘヤの首にグリーンチエックの蝶ネクタイ、キラリと光るまるい大きな眼、丸顔のチョッとしたハンサムボーイです。そうです。今、流行のテデー・ベア君です。名前はまだ思案中です。  今日、思いがけなく大きなテデーベアを頂いたのです。

女の子を持たなかった私はほんとは好きなんだけど余り、こうしたものを置いていませんでした。

ひとり暮らしは、結構なもので、時間とか、人様の思惑に左右されず、気楽です。でも、時に買い物にも出ず、訪う人もなくて、一日中しゃべらなくて済んでしまう日もありますから、さびしいなと思うことも在るのです。

「オツハヨー!今朝はごきげん、いかが?」 「さあ、そろそろやすみましょうか?又、あしたね」  そんな楽しい日が送れることでしょう。 有難う。  

 

   

  2001.9.28

 いよいよ、眼にきたか?  2001・9・28

 マンションの6階に移ってきてから、風呂上りのほてった身体を毎夜、ベランダで、夜景を眺める、一日の中で「これぞ幸せ」と快感を味わう習慣がついた。

今夜はまだ、十三夜では無い筈だ。暦を見ると十一日だ。ところがです!真正面にかかった月が、まーるく、二重、三重に見えるのです。片目ずつ瞑って確かめると、左眼の方が余計にぼやけるようだ。右目の進行が遅いのか?先日のテレビで、「六十代で、もう殆どの人は白内障にかかっている?」と言っていた。  
いよいよ、私も唯一自慢だった眼にきたか?パソコンの時も、新聞を読むのもめがね無しでよく見えるのに、この頃、遠くの光が二重どころか、尺玉の花火の様に、沢山の光のかたまりに見える。 
 「自然の老化さ」と言ってしまえば何のことは無いけれど。人間歳を重ねれば、こんな事が、こんな風になるよ!と書き残しておく事も若い人たちに何かの役に立つことかもしれない。
 私は、若い頃に両親も祖父母も亡くして、老人の先達を持っていない。手探りで、老いると言うことを自覚しながら、生きて行かなくてはいけないのだ。 
 之から、あるがままの『老い』の姿を書いていこう。みんなが通る路だもの。余り楽しい話ではないけれど。

私は、決して落ち込んではいません。ご安心を。

 

          

        こんな、おつきさま?yuganndatuki

  2001.9.24

ホトトギス  2001・9・24

 夏の間、只只葉が延び、鉢いっぱいに茂るばかりで、ベランダの隅に押し込められていた 「ホトトギス」が、今朝水を掛けている時花芽を一つ付けていました。 「ようやく咲くか?」と陽の当たる上席に置き換えてやりました。

此花は、地味な花で、余り人に好かれないようですが 私は花の向こうから、「ホッチョ カケタカ!」と甲高い鳥の声が聞こえてくるようで嬉しくなるのです。  
色々物騒な世界情勢や、重苦しい空気に押しつぶされそうな不安を感じるこの頃ですが植物は、季節に合わせて成長し、花開き、枯れていきます。そして、来年はまた新しい芽を出してきます。しかも今年より沢山になって。

遠く近く、あの澄んだほととぎすの声を、このマンションで聞く事ができるかしら?

渡ってくる空も、安全であって欲しいものです。 

     

                                hotogisu

 2001.9.21

「婆さんは、山へきのことり」  2001・9・21

秋蚕が上がって繭も出荷し、家の周りの畑でトウモロコシが立ち枯れて、稲刈りには少し早い頃、一雨降った次の朝など「もうソロソロかな」とワクワクして起きる。
「今日は、山へ行こうか?」そらきた!昔で言えば、五尺以下の身長でその上腰も曲がって小さい婆ちゃんが先に立って、女達がぞろぞろと各自の持ち山に登っていく。
この頃の山には、赤いビニール紐が木から木に張り巡らし、立ち入り禁止の札がさがっているが、あの頃は、各自の持ち山を皆知っていたものだ。  婆ちゃんに置いていかれないように一生懸命ついていく。  
「ほら!ここ。」婆ちゃんの指の先の土がほんの少し盛り上がっているかな?ソーッと、ソーッと両手の指先を土の中へもぐらせてもちあげるとしめじのかたまりが出てくる。「一株は、残しておくだぞ」と婆ちゃんが注意する。来年又、ここに生えてくるのだそうだ。今は、アイヌの人たちの信条みたいに言われているが、昔の人は皆そうした常識を持っていた。  
私の知っているきのこは、千本シメジ、黄シメジ、ジコボウ、くりたけ、位で見つけるたびに、「これ、たべられる?」といちいち聞いてそーっと取った。黄しめじは、一本ずつひょろりと伸びて乾いた感じ、ジコボウというのは傘が褐色で、裏を返すと手が触った所が緑色になる。ヌメーとしているが香りが良くて美味しい。せなかのかごに松葉や、栗の葉に包むようにして祖ーット入れる。小一時間も歩き回ると結構な収穫になる。 婆ちゃんは、マツタケの出る所も知っていた。いつのまにか、傘の開いたマツタケが四、五本籠に入っている。小坊主のマツタケはこの次だ。
雑茸は野菜を沢山入れた味噌汁にする。「腹も身のうちだ。その位にしておけ」と言われるほどお代わりした。  マツタケは、和紙を濡らして包み、長火鉢の炭火に網をのせてじっくり焼く。紙が、少し焦げる頃には部屋中にマツタケの香りが広がる。
縦に裂いて大根卸しを載せてお醤油をチョッとたらしてほうばると、シャキシャキした歯ざわりは大人の味。今なら此処で、冷酒を一口と言うところだろう。
 食べ物は、ヤッパリ旬を味わうのが一番だ。今のように、いつでも、なんでもどこかから運ばれてきて、「旬」がなくなってしまったのは、とてもさびしい。

   matutake

          kinoko

  2001.9.17

「栗ひろい」 2001・9・17

 今日、スーパーで、プックリふくらんだ栗の実が、網袋につめられて、ピカピカ褐色に光って積み上げられているのに出会った。「ワー!栗がでた。」呼びかけられている気がした。   
昭和の初め、小学校に入ったばかりの頃、私は長野県島立村北栗林という所に住んでいた。名前のとうり、村中栗の林だらけ。  そうだ、今思えば台風の季節だったんだ。あの頃は、今のようにテレビで渦を巻いた台風が、「何日頃、何処を通る」などという情報は得られない時代で、専ら空の色や雲の流れを見て、「明日は、雨になる」とか「今夜は西風が強くなるぞ」と予言するおじいさんの言葉が頼りだった。 
 夜中に、一眠りして気が付くと、雨戸がカタ、カタと鳴って、庭の木々がゴーッとうなっている。父が起きて「さてと、手袋は?懐中電灯は?火箸は?」と身支度をしている。母も手拭を頭に被って、腰に籠を縛り付けている。真っ暗な栗林の中は、木々が風に揺すられて、よく熟れてパックリ口を開けた「イガ」からバラ、バラと実が降ってくる。村民総出の栗拾いになる。栗林の中に懐中電灯や、提灯の小さな光の輪が、あちこちで動いている。「ほら此処に」「あっ、そこにも」声だけが聞こえる。私も父や母に付いて回った。はちきれそうに大きいのを見つけて拾った。ペチャンコのは拾わない。各人の腰に荒縄で縛りつけた籠がイッパイになれば、皆帰る。大人も、みんなはしゃいだ顔になつて。  次の日には、茹でたり、焼いたり、栗ご飯になったり。時には生のまま鬼皮を前歯でかじりながらむいて、渋皮をブリキ板でこそげてカリカリ食べたりした。「余り食べるとおなか壊すよ」なんて言われながら。うまかったなあ。  

明日は、どうやって食べようか?また「おかあさんは、ノスタルジーをたべて楽しんでいる」と息子に笑われるけれど。

 

  

 2001.9.13

いのち「生命」   

   アメリカで、同時多発テロ発生

 なぜ?大勢の人を殺すの?尊い命を奪うの?

人種が違っても、育った場所がちがっても、皆たった一つの命を一生懸命生きている人間なのに。男女,老若,職業などは各人それぞれ違っても,持っている命はだれも「一つずつ」なのに。頂いてきた寿命を全うせずに,一瞬に失わせてしまうなんて.。
 悲しく,哀れ。なぜ何故?  
地球に人間が存在し始めた時から,争い,憎みがあったのだろうか?  己の「正義」に従わない者は「敵」として戦い、其の為の道具として、沢山の人の命が失われた.。 
勝った正義が、次の世代には、「悪」となり、新しい正義に滅ぼされる。  振り返れば、何時もどこかで戦いがあった。何故かよく分からぬまま、辛い戦いの中に居たこともあった。
歴史は、争い、戦いの記述だ。戦って栄えて、又戦って負けて・・・・口では「平和」を言いながら。  私も、二十歳にならないうちに、母、父、祖父、祖母、弟達を次々亡くした.。そして、五十年余連れ添った主人も亡くなった。  もう、話し合えない。笑いあえない。

 「いのち」が、いちばん大切なのに。

 

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  2 001.9.3

「水引草」  2001・9・3

 朝夕すこし、涼風が立ってきた。 トロ箱に一株の水引草がある。この所弓形に花柄が伸びだして、チイサナ真っ赤な花粒が目立つようになった。 
 今から、二十何年か前、受け持っていた小学二年生の男の子、橋本君が、背中にランドセルを背負ったまま、一株の草を泥だらけの両手で持って、「先生の好きな花が道にあったよ!」と駆け寄ってきた。私の机にはいつも登校途中で見つけた野の花をチイサナ瓶に入れて置いていた。休み時間に此花の周りで「之は、なんと言う花?」「葉っぱの形、おもしろいね。」等と小さな発見を楽しんだ。
ニ、三本の水引草を置いていたのは、もう何日か前の事だった。橋本君は、学校の行き帰りに道路端の草を良く見て歩いていたのだろう。今朝、水引草を見つけて一生懸命草の命を大切に思って、根っこまでつけて掘ってきてくれたのだ。早速、植木鉢に植えて、水をやって皆で橋本君にお礼を言った。「これから、どんなになるかしら?」「花はどんなかな?」「その後、どうなるのかな?」・・・・すごい教材です。 
 それからは、紅葉したかえで、銀杏の葉、どんぐりに、松ぼっくり、野ぶどうの房、・・・教室イッパイに秋の景色が広がった.。 そして、その年の全校展覧会に我が組の子らは、この自然のモチーフを使って、全員で教室いっぱいの大きな、おおきな秋の野山を作った.。模造紙を何枚もつなぎ、会場の真中に紐を張って展示した.。ほんとうに嬉しかった.。  
今、このベランダにある水引草はあの橋本君が掘ってきてくれた一株の子孫なのだ。毎年花を咲かせてくれた.そして今年も6階のベランダの風にゆれながら、花をつけてくれた。  
あの時の子供達、どうしているだろう?みんな、りっぱなお父さん、お母さんになっていることだろう。水引草のように、一人、一人立派に人生の花を咲かせているだろう。
お幸せでありますように。

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  2 001.8.25

 夏が行く。  2001・8・25

 夕食をすませて、いつものようにベランダの椅子に座って夕風を楽しむ。
つい,先ごろまでは,この時間まだ夕闇も薄く,山の方の家の形が見えていた。今は,遠く,近く家々の明かりが瞬いて,赤いネオンサインもこんなに有ったかしらと思うほど彼方此方に光りだす。 南西の中空に半月がかかって,橙色に滲んで見える。八月ももう終わりになって,日が短くなってきた。六階のベランダと同じ高さの木々からは、青マツムシの合唱が「リューリューリュー・・・」と聞こえてくる。
ふるさとの山では,ススキの穂も出てきたとか?秋の花たちも咲き出しただろう。はぎのピンクや白や、女郎花の黄色,吾亦紅の深いエンジ色,松虫草の薄紫・・・・・・・・・・。
頭の中イッパイに秋の花々が見える,秋アカネの群れが空を覆うばかりに集まって,右に左に舞い回って 、見える、みえる。  
大正,昭和の頃,「秋は,もの思う頃」とか「おセンチになる」とか言ったものだ。乙女の日が遠く去って,感受性も衰えて今は、「お月様が二重にみえる!白内障がわるくなったかな?」などと、色気も何も無いこの頃だ。  明日は,何をしよう?古毛糸を出して、四角のモチーフを編みためて、冬の肌がけを作ろうか?時間はタップリあるのだから大物を目指す方が良い。

それにしても、、どこも痛くないこの身体、もっと感謝しなくてはいけないな。

お月様のまわりが、心無し、にじんで来たようだ。 明日は、雨降りになるかもしれない。

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  2 001.8.20

「ゴーヤー」にはまっています。  2001・8・20

 沖縄の、テレビ小説に触発された所も有るけれど、この所「ゴーヤー」の苦味にすっかり、はまっています。
チョット、グロテスクな形に初めは、とても食べられないと思っていたが、猛暑の続いたある日の昼食に目先を変えて作って見たのです。之が、ナツバテ真っ盛りの体になんとさらりと受け入れられて、以来「夏には之が一番」と信じてしまうほどに、魅了されてしまいました。

ゴーヤーは、縦半分に割り、赤い種と少しの綿を取り除き、3ミリ位に薄く切り、5/6分水にさらして置き,玉葱,豚肉少々をいため,ゴーヤーの水をきって入れ,歯ざわりを残すぐらいに軽く混ぜて,少々の醤油で味をつけ 木綿豆腐をあらく手でちぎって加えます。
肉の味も加わってほのかな苦味も豆腐にしみこみます。ご飯は,熱くても,冷たくても良く,パンにのせてもいけます。栄養タップリ,夏向きのおかずです。 スーパーで見つけると,又一本買ってしまいます。

 

 2 001.8.18

「迎え盆」  2001・8・18

 ふるさと松本では、8月13日が迎え盆です。

私の子供の頃は、この日がお正月と同じくらい心の躍る日だった。白地に赤い朝顔の模様のゆかたを着せて貰って,絞りの三尺帯を蝶結びに、下駄の音をわざと鳴らして,早く夕方が来ないか?と家の周りをはねまわっていた。
祖母は,精進料理の天ぷらや,豆腐の寒天寄せ等を山ほど作っている。父は、ききょう,おみなえしなどなど,お盆花を揃え,ビール瓶を切って花立を作る。
 軽い昼飯を済ますと各人が決められた荷物を持って城山の墓地へ向かう。私は,お線香とカンバ{白樺の木の皮を干したもの}を持つ。山の上の墓地では,多くの家族連れがそれぞれの墓前でお供え物をして、迎え火を焚いている。「爺ちゃん,婆ちゃん、このあかりで、おーいでおいで」と子供たちが歌う。カンバを焚くと黒い煙が,上がっていき,良い匂いがする。ご先祖様達を呼ぶうたで、これから,家へご案内するのだ。
家に戻って玄関先で又カンバを焚く。此処が,家だよ。{帰るうちを間違えないようにということか?} なすや、きゅうりに割り箸を4本刺した馬や,牛が供えられて,「歩かなくていいように?」お酒も果物も,沢山のご馳走も並んで・・・お正月以上だ。

夜になると,男の子は「青山さま だい、ワッシヨイ、コラショイ・・・」と杉の葉を積み上げたおみこしを担いで練り歩き、女の子達はチョッとおしとやかにほうずき提灯をともして、「ぼんぼんとてーや、きょうあすーばかり・・・・」と唄いながら、町内を列を作って歩き回る。たのしかった。

 今年は、此処のマンションへ亡父を連れ帰った。13日、朝早く、電車とバスで御迎えに行ってきた。初めてのうちで間違えられたら大変だもの。  盃ふたつに冷酒をついで、二人の酒盛りだ。「ホラ、おとうちゃん、このテンプラ好きだったでしょ」 16日までのんびりして、良くこのうちを見てね。おかげ様で、便利な生活をさせて頂いています。どこか、直す所が有ったら、教えてね。

もう直ぐ、秋の虫も鳴きだすだろう。

 

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2 001.8.15

   転ばぬ先の杖   2001.8.15

玄関とトイレに、手すりを取り付けた。生活面は、全部フローリングで、段差無しのマンションに入って,大変楽になったが、玄関で履物を替えるとき,靴のあるたたきが,僅か1.2センチメートル低くなっている。ペッタリおしりを下ろして靴を履くと,立ち上がるのにどうしても壁に手をつかないと立てない。
一日に何度も外へ出るし,来客の時もドアを開けるために履物を替える。椅子を置いてみたが、ヤッパリ,壁に手をかけないと立てない。突っかけサンダルは,もう何年もまえから禁じられているし,靴のかかとを引き上げるには力がいる。
之では,白い壁がすぐに黒くなると思う。主人も晩年自分の意志を超えて、家の中でも,外でもよく転んだ。そして,自分で起きられなかった。 トイレもどこかに掴って立てば楽なのだ。  
そんな こんな・・・を考えて,長さ1.65センチメートル、直径3.5センチメートルの円柱を,自分の掴りやすい位置に、まるでバレー教室のバーのようにカッコよく付けて貰った。両端には、ニブい金色のキャップがついて、オシャレー・・・・玄関の雰囲気も壊さない。
体中でよりかかっても、しっかり支えてくれる。立ったまま,靴を履いてみたり,ぞうりをはいてみたり、子供みたいにうれしい。 
トイレは,L字型の手すりがついた。これも,オフホワイトで握る場所はゴムの滑り止めが着いている。 工事やの若い職人さんの技に只、ただ感じ入ってその手際の良さに見ほれていた。

老人に、やさしい社会になってきたと思う。「転ばぬ先の杖」 自分も楽で,なるべく人の迷惑にならないように生活するつもりだ。

さて!今日は,何か美味しいものを探しにスーパーに行ってこよう。

工事の前

工事の後

 

  2001.8.5

     遠花火  2001・8・5

今夜は,満月だという。曇り空だけれど、出てくれるかな?ベランダの椅子にかけて宵の涼風を楽しんでいる。以前住んでいた家は、庭に立ち木が茂り,池もあって、虫,ことに蚊が多くて,チョッとでも隙間があると進入してきて、音もせずに刺された。大きく赤く腫れて,何時までも痒い。
夏は,恐怖だった。ここは、ベランダで,生の涼風に身をさらす「しあわせ」を満喫できる。カナカナ蝉も鳴きやんで、森から闇がふくらんで広がってくる。目の高さの東南の空一面,うす雲が流れ,細い切れ間に、オレンジ色のまるい光が滲んでいる。お月様が昇ってきた。はじらうようにソーッと昇ってきた。雲の流れが速い。見ている間に雲に覆われ、また,顔を出す。 
ふと,西の空が明るくなった。?、と目を転ずれば,赤い星の固まりがチラチラときえていく。遠い花火だ。音は、聞こえない。続けて,青い星 白い星 また赤い星が玉になり,蝶になり、鼓のようになっては消えてゆく。「なんとまあ・・・」ベランダから身を乗り出すようにして、小一時間も見とれ,楽しんだ。まんまるな月が、中空にきて,笑っているみたいだ。

 

    2001.7.24

     雨の音  7月 24日

マンション6階に降る雨は,「シャカッ・・シャカッ」と鳴る。ベランダのステンレス手擦りに当たる音だ。雲から地面へ落ちて行く途中の音だ。
連日の猛暑と晴天続きで、畑の野菜たちが泣いているだろうと切ない

気持ちだった。昼食後の一休みで、トロトロしていたが、聞きなれない音が

気になってベランダへ出てみた。「あら,雨か?」手擦りの先へ腕を伸ばして見ると

1粒,2粒水滴があたった。

昔は,シト、シトとか、そぼ降る雨とか雨に情緒があった。

マンションの雨は,地面がずっと下にあって,空中を音なく降下して行くだけ。

途中でよろめいた雨粒が手擦りの金具に当たる音だ。

蛇の目傘や、番傘の油紙にぱらぱらとかざあざあとか当たったけど。

見下ろす中庭で子供たちが黄色い滑り台に群がって,喚声を上げている。

ぬれていつもよりよくすべるのか?パンツがぬれておしりに張り付いている。

どこかの国では、雨にぬれる事も平気だとか?傘なんていらなくなって。なんか,乾いた時代になったようだ。

昔の雨の音は草木の葉や傘やトタン屋根や,地面にあたっていた。今の私の雨は空中を通り過ぎるおとだけ。

 

 2001.7.22

枝豆

きょうは、予告のあつた来客三人の予定。

 「よーし、ひとつびっくりさせてやろうかな?」

我が,ふるさとの「ヌタモチ」を作ってご馳走してやりましょう。

これは、明治生まれの祖母に習った田舎の味。

田んぼのあぜに、枝豆が茂るようになり始まると,何時作ってくれるかと

心待ちしていた大好きな味だ。

茹でた枝豆を擂り潰してもち米のご飯にかけて食べる。

もち米とうるち米を、6:4位の割合で、少し柔らかめに炊き,

所謂,「半殺し」の状態に搗きつぶし,茶碗に7分目盛り、上に冷たい

緑色の枝豆のヌタをのせる。・・・・・おいしいよ。

熱いご飯に冷たい枝豆,ドロリとした中に、1・2粒の形を残した

豆が宝石のように混じって歯ざわり絶妙。

あの頃,「70年以上も前」は、冷房など,何処にも無くて,只ひたすら、

陽が落ちて,涼風がたんぼの上を吹いてくるのを待つばかり。

井戸の水は,長くは浸していられない冷たさだった。

祖母は,日中に大量の枝豆を根ごと抜いてきて,実をもぎ,大鍋でゆで、一粒ずつ

実をはじきだす。この辺から「手伝ってくれるか?」と声がかかる。

皮のほうが山のようになる。

おおきな擂鉢に溜まった豆に、塩 をふって,ギュッ、ギュッともむと薄皮がはがれる。

これを,一度水で洗い薄皮だけ流し去ると適当な塩味が残る。

さて、それから、ゴリゴリ,ゴリゴリ・・・・擂って擂って・・・・

茶色の大きな擂鉢の中で山椒のすりこ木がリヅミカルに動き回る。

はじめの内は豆が飛び跳ねて,中々つぶれない。搗いたり,叩いたりしながら

徐々に緑色のアンコ状になるまで時々井戸水を入れながら擂りのばす。

幼い時は,擂鉢を押さえる役,少し大きくなれば,時々祖母と交代して手伝う。

そうこうしている間に「水加減」「すりこ木の扱い方」「味加減」等の微妙なコツを、

会得していく。首に巻いた手拭で流れる汗を拭きながら,ときどき指先にチョッと

つけて味見をする。これが又,美味しく,楽しい。

おかずは,煮物。茄子、いも,にんじん,インゲンなど,朝から囲炉裏の大鍋で煮えている。

 「今は,ミキサーがあるのに」と言われるが,何か,味が違う。そこが,80婆さんの意固地かな?

今日の,お客さんたち,どんな顔をして、何と言うだろう?

「この,ヌタ餅の枝豆も,今年私が畑で作ったの」一年間,畑を借りて

一番先にまめの種を蒔いた事,カラスが見ていて,みんなたべられてしまったこと

ゴンベが種蒔きゃカラスがほじくる。を何度か繰り返した事・・・・

きっと,話もはずむことだろう。ヌタ餅が、もっとおいしくなる。

 

枝豆を植えたのですがみんな食べられて(からす?はと?)1本だけが残りました。

こんどは網をかけて厳重にガードしました。

これが今回の収穫の元です。

2001.7.20

年齢の故か、朝は早く目が覚めます。
窓を開け放ってベランダの椅子に座ります。
うすもやの中に、濃緑の林、遠くの山に張りつくように建ち並ぶ
住宅の群れが見えてきます。

6階のベランダから見る景観は、ふるさとの朝夕、
身近にあった山河を想い出させます。
そろそろ、カラスの群も朝のボイストレーニングを始めます。

やがて、棚引く雲が金色になって来ると朝日が登ります。
50年余連れそった亡夫の写真に話しかけながら
80バァ-さんの1日がはじまります。

今年はカラ梅雨で7月に入って30〜35℃の猛暑が続いています。
今日も暑そうです。

サテ、今日はアレを片付けて、・・・・・・・。

ベランダの鉢植えの草木に水をかけてやりながら予定をたてます。

ミンミンゼミが鳴き出しました。