80バーさんのつぶやき

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 2002.7.26

月夜の銀の笛

7月26日、午前1時20分、一眠りして目が覚めた。

ラジオが、台風11号が九州屋久島の西方に有り、風速33メートル以上の暴風が吹き荒れていると伝えている。

狭い日本と言うけれど、九州海上は大荒れで、此処では満月が輝いている。ベランダに出ると蛙の合唱が盛り上がってきこえてくる。
♪ 
月夜の田んぼで コロロ コロ コロ 鳴く声は

 あれはね、あれは蛙の銀の笛、さ さ銀の笛 
子どもの頃、カエルのように澄んだ声で川田 正子が良く唄っていた童謡を、フと思い出して口ずさんでいた。大正時代に作られたものらしいが、丁度今夜のように満月の光の下の情景だったのだろう。100年前にも、地球上の営みは同じ様に風が吹き、同じ月が輝き、蛙が鳴いていた。この頃、何もかもめまぐるしいほど変化しているけれど、昔も、今も変わらない姿もあるのだと、変な感心をしてしまった。

何だか、寝そびれてしまった。ラジオの深夜便はハワイアンが流れている。灰田 勝彦の甘い声や、「タイニー・バブルス」「小さな竹の橋」等の曲が好きだったなあ。

一度も、ハワイへ行ってないのに、花のレイを首にかけ、派手な服装の娘さんがフラダンスを踊っている光景も思い描く事が出来るのは、テレビや映画のお陰だろうか?

 毎日を、チマ チマとせわしなく送っている事が何だか情けなくなる。時は時々刻々と刻まれて、古いものをドンドン捨てていっているようだけれど、一方では、全く変わっていないものもシタタカに残っていて、ふっと帰って来ることも在るのだと思えば之も、80年生きた者の実感かとうれしい。

九州では大型台風が吹き荒れていて、ここでは月があかるく照り、蛙の合唱が盛り上がって部屋の中にはハワイアン・メロデイーが小さく流れ、おばあちゃんは水割り片手にホーム・ページの原稿を書いている。

人も、物も さまざまの場所で、さまざまの命を生きている。人間は、小さくて自然の力に翻弄されながら、それでも何か、己の生きた証を残して行けたら幸せなのだ。

おかあちゃん、おとうちゃん、爺ちゃん婆ちゃん皆に
会いたいなァ〜。

雨戸も、障子も開けっ放した部屋に、青い蚊帳が涼風に揺らぐ。弟や妹達と布団の上を転げまわった夏の夜がなつかしい。     02・7・26  

 
    奄美風蘭

 
     ミニバラ

2002.7.16

マンション暮らし一周年

 今日で,このマンションに満一年暮らしたことになる。

去年の7月11日に,木々を見下ろす中空のベランダに立った時 南からの風が強く吹いていて,林の中のネムの木がピンクの花を揺らして歓迎してくれていると嬉しかった。

今年は,昨日台風6号が通って,不安な一夜を過ごしたが、今日は台風一過,35度の晴天になった。木も,花たちも無事でよかった。

何と恵まれた日々だったことか? 息子達や,お嫁さん,弟妹達に見守られ助けられて朝,トロ箱に植えたミニトマトが赤くなったのを二つ摘み取って,そのまま口に入れてプチッと噛んだ。  一年って短いなあ、たのしかったなあ。

今日も,去年と同じに木々が揺れ,夕方6時のチャイムが鳴っている。西に傾いた陽射しも柔らかくなって、魚を焼く匂いや,野菜炒めのバターの香りなどがベランダを漂ってくる。この頃 毎日のニュース等では,何かと恐ろしい出来事が流されて来たけれど,私は穏やかな幸せな日日だった。

風のむきによって電車の音が近くに聞こえる日もあった。遠く赤く音の無い花火の競演も,豪華な流星群もこのベランダで見られたし,秋になって木の葉が落ちると 山の上の遊園地の観覧車のネオンも輝きながら回っていた。

元日には,たなびく雲を割って初日が昇ってきたのもこのベランダで見た。一日一日の変化は僅かなものなのに、一年経ってみると,濃い緑が茂り,花が咲き、何時の間にか散り、葉は紅葉して 寒くなり,又暑くなった。日々,沢山の新しい経験が楽しかった。

最高の,恩恵は,虫「蚊や蝿」のいないこと。今まで夏は虫に悩まされるものと思ってきたものだが,此処では一度も御目にかからない。これは本当にうれしいことだった。

遊びに来てくれたのは,むくどりが、巣作りに使うのか?ベランダに結んだビニールの紐を毎日少しずつ毟り取りに来た。ツバメもニ三度掠めるように飛んできたが、餌らしいものが無いのか?もう来なかった。

明日から,二年目が始まる。 今年は、どんな「しあわせ」をみつけられるだろうか?

                                       2002・7・11

 

 

     ベランダで採れたミニトマト

  2002.7.4

 ベランダの野菜

 今年は、市民農園の抽選にはずれてしまい、畑に通う楽しみが無くなった。

去年は今頃、ぐんぐん伸びるジャガイモや、ピーマン、小松菜などを見たり、いじったりがとても楽しかった。オクラが出ない、枝豆は、又カラスに食べられた・・・・なんて言いながら。

今年、5月はじめにトマトと茄子の苗を二本ずつ買って、トロ箱に植え付けてベランダの日向に置いた。朝晩水をかけ「しっかり育ってよ」と声をかけるささやかな喜びで 我慢することにした。

幸い四本とも活着して、茄子の葉っぱなどお化けのように大きく育ってきた。紫の花も3こ4こ付いている。茄子にはムダ花はないという。葉っぱが大きいから、これは長なすかしら?

トマトは、ミニの苗だったから、ドンドン枝別れして、節に黄色の花が固まってつきだした。始めは、長い割り箸を添えてやったが、どんどん成長しあちこちに暴れて延びていく。

 6月に入って、2、3日南面するベランダにものすごい南風が吹きつける日が続いた。ステンレスの縦柵だけなので、真正面から凄い音をたてて風がふきつける。茄子の葉がちぎれそうに風に翻弄されて、裂けたり萎れたり茶色になったり、トマトはまるで90度の最敬礼を右に左に繰り返している。小さな花の鉢は転がされて土はこぼれ枝は折れる。どうしたらいいのか?半泣きのお婆ちゃんはトロ箱を引きずって何処へ避難させたらいいのか?手すりや、柵にビニールをガムテープで貼って風除けにならないかと悪戦苦闘の有様、暗くなってもなんとか風除けの方法が無いかと苦心惨憺。ねむられない。

梅雨に入った。畑なら、水をやらなくてもよいけれど、ベランダに雨は降らない。朝に夕に土に触って乾き具合をたしかめる。太陽が真上を通るようになって、朝のうちほんの少ししか陽が当たらなくなった。貴重な陽光を当ててやりたくて、重いトロ箱を引きずって日向に動かした。

6月23日、トマトが赤くなった。二つだけれど。初物だ。仏様に上げてからお昼に味見をした。まだ少し酸っぱいけれど、新鮮そのものだ。

今朝、7月4日、紫色の光る美しい茄子をふたつ、パチンと鋏の音も高らかに収穫した。その艶、その肌ざわり、へたにあぶらむしが少しついていた。虫がつくのは美味しいから?今夜は、焼き茄子にして頂きましょう。おかかと生姜ものせて。

一日中陽の当たる畑でもないのに、こんなに成ってくれて有難う。

この頃は、農薬だ、添加物だ、賞味期限だと問題がテレビ、新聞を賑わしているがこれは、正真正銘の新品だ。まだまだ、次々取れそうだ。

所々ちぎれた葉っぱや、暴れまくったやんちゃ坊主のトマトの枝ぶりは哀れだけれど、まだまだ花がたくさん付いている。葉っぱの緑も元気いっぱいだ。

植物のすばらしい生命力に、感謝!感謝!です。

                        

  

  

 2002.6.19  

 こまくさの花  

昭和10年、小学校を終えて、女学校に入学した。田舎の小学校から当時の都会の女学生になって祖父母の家から歩いて通学した。  私はこの学校に7年間通った。
一学年、50人ずつ5クラス が4学年、その上に専攻科が3学年もある。総勢1200人を超える生徒と、覚えられないほどの先生方と、事務、用務の人達 がいる大きな学校に入った事は大感激だったけれど、戸惑う毎日だった。毎時間、違う先生が講義に来られ、その教え方もいろいろ有って、科目によって教室を移動する。幾棟もの校舎があちこちにあって中々覚えられなくて困った。

行事に使われる講堂の正面には、「温良貞淑」と大書された額が掲げられていて何か身の締まる思いがした。大きな体育館、弓、なぎなたなどの道場、物理や化学の実研室の棟、裁縫、調理の実習室の棟、音楽器楽の教室の棟、洗濯や染物の棟など、その他 一度も入った事の無いところもあった。

 昇降口というのにも驚いた。外履きと校舎内での靴を履き替える場所、つまり、下駄箱のある場所なのだけれど何度も筋を間違えて、「私の履物がない」と泣きそうになった。
近在、近郷から、1時間も、2時間もかけて汽車通学する人もいたし、他県から入学した人は、隣接する寄宿舎に入っていて、始業時間になる頃廊下をぞうり履きのまま走って来たりした。 とにかく、毎日目を回しながらだんだんと馴れてきた頃に、2年生になり新入生が入ってくると先輩意識で少し生意気になった。

その頃、通用門の前の道に、「こまくさ屋」という小さなお店が出来た。文房具や、女学生の喜びそうなアクセサリーなどがこまごま並んだ。その頃流行ったロケットに大事な人の写真を入れて密かに首に掛けて、服の上から触ったりしている人も有って、下校時から可愛いお財布を握った女学生が店に溢れていた。ときに、中学生の男子もまじっていたりして、ちいさな恋のうわさも流れたりした。店の入り口のガラス戸に白い文字で「こまくさや」と書かれ、小さな赤い花の絵があった。「このはながこまくさというアルプスに咲く高山植物で稀少なものだ」と若いご主人が教えてくれた。   「会いたいな」と思った。

3年生になって、登山部で後立山縦走の冒険に挑んだのもこまくさに一目会いたいと思ったからだけれど、ショボ降る小雨の中を只ただ一週間歩いただけで、とうとう、会うことができなかった。遠い昔の乙女のあこがれは、 「いつかきっと と思いつつ流れるままになっていた。

2002年、今年6月19日、とうとう会えた!

梅雨の晴れ間の一日、息子に万座に連れて行ってもらった。「此処には、こまくさが咲いているよ」と思いがけない言葉に胸が躍った。   念じていれば,必ず適う。

浅間山麓の冬はスキー場になる草原を歩き回って、こまくさ園を探した。今は人のいない民宿のかげに小さな立て札を見つけるまで歩いて、歩いて、ほんの2坪ばかりの赤砂土を小石を並べて囲んだ「こまくさ園」にたどりついた。

7株8株,ヘリが捲れ上がった釣鐘のような花たちが5,6本ずつうつむいて寄り添うように咲いている。乙女の頬のような温かい赤い色。薄青い細い葉の塊に守られ はづかしそうに咲いている。「ヤット会えたね」・・・しばし言葉もなし。

地面に膝をついて,写真に収めた。これから いつでも会える。

 

 

  こまくさの群生

  大きな株

 接写してみました

2002.6.16  
どこに田んぼが?

六月に入っても,梅雨らしい天気にならず,毎日真夏のような暑い日が続いて,身体も少し疲れてきた。今年の梅雨はどうなっているの?
突如として,九州から,東北まで一気に梅雨に入ったと報道が在ったのは六月十一日。
「ウソーッ」という言葉を思わず吐き出した。
翌十二日,なるほどショボ降る雨の朝が来た。音も無く降る小雨の一日、でも暑い。

夕方,風呂上りの火照った身体でベランダに腰を下ろすと、なんと蛙の鳴き声が聞こえる。

何処に田んぼがあるのだろう?

東京に住むようになって、無性に田んぼの中の家が恋しくなって、わざわざ信州まで蛙の合唱を聞きに帰ったことも有る。雨には、やっぱり蛙の鳴き声を聞かないと落ち着かない。ところが何と、このマンションで、蛙の声を聞けるとは。今年は、安曇野へ、アルプスから流れ出る清水に咲く真っ白なわさびの花と見渡す限りの青田の蛙に会いに行こうと思っていたけれど行かなくてもいいかしら?

私の、子供の頃は、六月の十日頃 村中が一斉に田植えで忙しくなるので小学生も一週間ぐらい「田植え休み」があって、苗運びや子守りなどを手伝った。「お小昼」(休憩時のお茶)に たべた大きな黄な粉のおむすびが忘れられない美味しさだった。

 もうそろそろ、ほたるがひとつふたつ 夕暮れの川の上を光って飛んでいるだろうか?

この頃の田植えは早いから、水をたたえた田んぼから、雨の前ぶれの蛙の賑やかな声が聞こえているだろう。                           

 

                   

                    

 2002.5.29

キレイなものを,観て居たい。  

花菖蒲や,紫陽花の情報が,新聞やテレビにのりはじめた。花菖蒲の,あの薄い花弁に血管の走る様に,青,紫,ピンクなどが透けて見えて,ぼったりと豊かな花弁が垂れ下がる姿も、「いづれアヤメかかきつばた?」と言われる水辺の菖蒲科の花達の姿も、 「造化の神」傑作と思わせる額紫陽花の色の複雑さも,只見とれる美しさだ。 此処まで,何年も何十年も思いを込めて育て上げた方々のご苦労や,心には充分尊敬して見せて頂く。最早,私には,その力も時間も無い。この美しさを,見せて頂いて「有難う」とお礼を言うだけ。 

今年は,何処の花菖蒲や紫陽花が見られるだろうすっかり、他力本願 になってしまった私だ。念じていると、「〇〇へ行こうか?」と誘ってくれる人が居る。
うれしく感謝で、連れていって頂く。

去年の秋の白い渓流に目の覚めるような紅葉、まだ春浅い二月のさくら、山を覆う梅林の梅の数々,全山赤く染めるつつじ,富士山を眺めながらの露天風呂、柿田川の湧き水とかわせみ、車の窓から手の届く熟れたサクランボ。只、座っているだけで会えてしまう。本当にありがたかった。

 若い頃の私は,意地っ張りで 「コレだけは,人が何と言おうと絶対やりとげる。」ことを旗印にしていた。「艱難汝を玉にす。」などと粋がって、我が身を痛めつけることが成長につながる道と思っていた。

今は、「良い事は、向こうからやってきてくださる。」欲を出さずに,時を待つのが一番よいことだと思うようになった。体の機能も着実に,老化が進んでいて、之が自然の形なのだと思うから,在るがままを受け入れて,与えられた場所を感謝して,毎日を過ごして行けたらこれ以上の幸せは無い 。ベランダの紫陽花の蕾が、日に日に大きくなってきた。

  

            恵林寺のお庭

 2002.5.22

柿若葉   

 柿の新芽が、吹き出すように小さな葉を伸ばし始めたと思う間に、ぐんぐん大きくなり、枯れ木のようにひび割れた幹にも、活力が沸いてくる。ニ、三日経つと、艶々としっかりした肉厚な浅緑の葉が、重なるように大きくなって、朝日に照り映えて輝く。私は、柿の若葉が朝日に眩しく光る姿を見るのが大好きだ。生きている喜びが湧き上がる気分になる。 十九歳の春、新卒新米の教師になって、田舎の女学校へ赴任した。町の旧家の黒板塀に囲まれた大きな家で、門の傍らに「供待ち」として建てられた、六畳間に、小さな勝手場と便所の付いた離れをお借りして自炊暮らしをした。

奥の母屋には、昔の野武士のような痩せて背筋をピンと伸ばしたお爺様と、すっかり腰の曲がったお婆様のご夫婦が住んでおられた。跡取りの息子さん一家は、東京で会社勤めをされていると言う話だった。

庭が広く、敷地内に清流を引き込んで池があった。川からの取り込み口が洗い場になっていて、野菜や、鍋釜などを洗い、池の中には大きな鯉が沢山泳いでいた。私の部屋の勝手場から庭を隔てて、母屋の居間が見える。大きな黒光りする板の間で囲炉裏が切ってあり、自在鍵に大きな鉄瓶からいつも白い湯気が上がっていた。

 窓が白み始め、鳥の声が聞こえてくると私は起きて、ちいさな七輪に炭をおこしお釜をかけてご飯を炊き、味噌汁を作る。今のように電気もガスもない昭和18年のこと。食べもの屋は勿論、魚屋、肉屋などは無く野菜などは自給自足の時代だった。でも、大家さんや、近所の人達が小さな娘が自炊するのが珍しいのか畑の帰りに菜っ葉や、芋などを部屋の前に置いて行ってくださるので味噌汁の実には充分だった。

ご飯の吹き上がる間に髪を整え、着替えをしながら、母屋のほうを眺めると、お爺様が肩に手拭をかけて出てきて井戸水で顔を洗い、東を向いて太陽に拍手を打ち一日の無事を祈ってから囲炉裏の前に座る。お婆様はもう先に朝の身じまいは済まして、チョコンと座ってお茶を入れている。澄んだ朝の空気の中に老夫婦が囲炉裏を挟んで決まったお茶碗を両手で包むように持って、何を話すでもなく静かに朝茶を飲む姿。

安心・信頼・静寂・幸福・

夫婦  ・・・・これぞ、理想の人生の図と言うのだろうか。私も、早く年をとってこのお二人のように静かな人生を過ごせる様になれますように!とつくずく思った。

今年の柿若葉も、陽に照り映えて精気溢れて輝いている。美しく、たくましく、迷い無く。この頃少し弱気になってきた私にも、元気を 与えてくれるように 思う。

 

 

   

  2002.5.8

にせアカシア  

 ベランダから見る雑木林が、日増しに緑を濃くしてきたが、その先に背の高い、竹箒を逆さに立てたように突っ立っていた一群の木々がこの所、急に白っぽい薄緑に変わってきた。何の木かと気になって 買い物に出たついでに木の下まで行ってみた。
「にせアカシア」だ。白い蝶のような花が藤のように房になって、まだ少ない葉の間に垂れ下がって咲いている。「にせ」なんて可哀想.。私が、女学生の頃、松本城のお堀に沿ったみちが通学路だった。 緑色の水を湛えたお堀の土手にこの花がいっぱい咲いていた。とても良い匂いがして、蜜蜂がぶんぶん飛んでいた。 この花から取れる蜂蜜が「アカシア蜜」で高級品だという。学校からの帰路、私たち、多感な女学生は毎日この林の中で、楽しい時間を持っていた。

お堀の上の土手は、ホントは人が通れないのだけれど、私たちだけの秘密の道が何時の間にか出来て、萌え出たばかりの はこべやタンポポやぺんぺん草などをつまみながら、ときには座り込んでしまって何時までもおしゃべりをした。今日の授業の事、映画の事、将来の事、何となくきな臭い匂いが漂い始めた世界や日本や満州のこと、話題は尽きなかった。昭和の14.・15年頃の事だ。
にせアカシア(本名)「はりえんじゅ」は、北アメリカ産の落葉高木で、育ちが早く、街路樹や、公園などに植えられていたようだ。

今、こんなに近くで、にせアカシアの林に会えるなんて、何とも不思議なことだ。

無限に広がる未来を思いていた女学生時代。あの時から何十年も生かされ、流されてきた事 、私の八十年を考えてしまう。

いろんな事があった。色々な経験をした。 自分の力で何をしただろう?

 目の前のにせアカシアの林が、枯れ木のようになって、冬を過ごし今、又美しい白い花を咲かせ 緑の葉を茂らせ、甘いかおりを放ち 人や虫達を喜ばせている姿を凄いと思う。

                                                     02・5・6

 

     にせアカシアの花

  

 2002.4.29

 ツバメが、飛んだ。  

今朝、早くにベランダを掠めるように、黒い鳥がサーッと飛んだ。「あっ!つばめだ」

随分暫くぶりに、ツバメの飛ぶのを見た。

子供の頃には、どこの家にも土間の上の梁とか、入り口のひさしニ、田んぼの土とわらで作られた大きなどんぶりのような巣があった。黄色の口をイッパイに開けて、巣の中の子ツバメが、親のくわえて来る餌を待って声をあげていたものだ。親は、一日中飛び回って餌を、運んでは、又直ぐに飛び出していった。雛は、直に大きくなって、涼風が吹出す前に南の国へ帰って行った。「又来年、おいでよ」。当たり前の年中行事だった。

電信線に三・四羽の、ツバメが止まってチビッ チビッ チビッ
 何の話か?チビッ チビッ チビッ チビッ。

見ているうちに飛び出した、急行列車か?飛行機か?古巣のお家へ、一目散。・・・・

こんな唄を歌いながら、飛び回るツバメにみとれた。スマートな黒い燕尾服を着て、長い尾羽と白い腹を翻して、絶妙な宙返りをしながら、流れるように飛ぶ姿は、見とれる位美しかった。

今は、田んぼも川も藁さえ少なくなって、マンションの壁では、巣は作れないだろう。あなたのおうちはどこ?

亡夫は、定年後、動物園のシルバー・ガイドのボランテアをしていたが、研修会で絶滅危惧動物への関心を強くして、いろいろ動いていた。「動物も植物も人間も皆必死に生きようとしているけれど、誰かが、何とかするだろうと思っている人ばかりだね。」と言っていた。

10何年か前、主人と台湾の花蓮で切り立った渓流の向こうの岩山に数え切れないほどのイワツバメの巣があって、川の上や、山肌が真っ黒になるほどツバメが飛び回っていた。今は、どうなっているだろう?「燕巣」は高価な食材として、人間が危険を侵して取リまくっているというけれど。   今朝のツバメに明日も会いたいな。

     なにか話をしているツバメ

    

2002.4.26

朧月夜   

 今夜の月は、13日か?12日か?満月に近い月が、何となくボンヤリかすんで見える。

私の眼の所為ばかりではないと思うけれど。

小学校で覚えた

♪〜菜の花畑に入日うすれ・・見渡す山の端、かすみふかし・・が口をついて出てくる。 わたしは、二番の

♪〜 里環(さとわ)の灯影(ほかげ)も森の色も、田中の小道を急ぐ人も、  蛙(かわず)の鳴く音(ね)も風の音も、さながら、霞める朧月夜。・・・の歌詞がすきだ。

作詞者高野辰之は、同郷、信州の人で♪〜うさぎ追いしあの山、小鮒釣りしかの川、・・・″

 の「ふるさと」も、私の小学校の校歌も彼の作詞だ。

幼い頃の信州田舎の情景が、はっきりと頭の中にうかんでくる。

霞がかかったような朧月が、うっすらと昇ってくる頃、家の裏の川べりに立って、♪〜カワズの鳴く音も、風の音も・・・・・
と突き上げる寂しさに耐えながら、口づさんだ幼い日々を思い出す。母を亡くし、父はまだ帰ってこない一人ぼっちの女の子が、意味はよく理解していなくても、何か、周りに漂う不思議な空気に、胸をつまらせながら、小さく唄った「おぼろ月夜」。

あすは、雨になるかもしれない。このニ、三日暖かすぎたもの?

2002年の朧月は、大分、西へ動いてさっきよりもっとおぼろになっている。

 

 2002.4.24

 緑の波・南風   

4月16・17日と2日に渡って,昼夜,ものすごい南風が南面するベランダを吹きまくった。

 小さな植木鉢は,堪らずコロコロと転がり,大きな鉢も大きく伸びた枝や,満開の白つつじの花たちを付けたまま,横倒しになってしまった。アラ!アラ!とおろおろしながら,皆室内へ避難させたり、枝をベランダの柵に縛り付けたり,重石がわりに鉢皿に水をいっぱいに張ったり一人で悪戦苦闘した。つい先ごろまで,枯れ木のように枝だけが突っ立っていた林が何時の間にか,新芽がぐんぐん伸びている。その先の山の上に夜毎美しく灯かりを点滅させながら回っていた観覧車も葉陰から時折光がもれて見えるようになってしまった。 
近景の木々もすっかり葉が茂り,薄い緑,濃い緑,黄緑など等,思いがけぬ色が交じり合った葉っぱが重なってこんもりとした湖を見下ろしているようだ。その緑たちが,右へ,左へ波打っている。吹き寄せる風に,枝ごと前に倒れそうに俯く。サーッと引く風に今度は白身を帯びた葉の群れが、ザーッと裏返しになって盛り上がり、揺り返す。
ちょうど、葛飾北斎の「神奈川沖、浪裏」の画を見るようだ。緑の浪がしらが、表を見せ、裏がえり、盛り上がり、猛り狂うありさまは以前、日本海で台風の波を見た時のおそろしさを思い出させる。  暮れてきたベランダに小さな花鉢を抱いたまま、我を忘れて眺めていた。

ハイビスカスの蕾もまっかに膨らんで、明日は、大きく開きたがっている。

 明日は、どうぞ風が収まりますようにと願う。

 

 

    みどり ミドリ  

 

 2002.4.17

この頃、読んだ本   

〇 ハリー・ポッターシリーズ。

 八重桜の並木を歩き、今年のお花見も終わりになった。

今年は、二月の河津桜を皮切りに、諸所方々、沢山の桜を見て歩いた。本当に、桜を堪能した。日野には、見事な桜がイッパイ有って、幸せだ。一人、カメラを持って東へ行っても西へ回っても桜があった。花を見て帰ると、何とも幸せな気分になり、体中に力が沸いてくる。そして、この高揚した気分は、「ハリー・ポッター」の魔法にも、そのスピーデーなリズムをも気楽に受け止めて、ハリーと一緒に箒に乗って飛び回る。正に、魔法使いのおばーさんに変身している。楽しい、世界だ。まだまだつづく・・・・

〇 老人力   

 この所、図書館へ良く行く。歩いて10分ぐらいか?それでも、帰りに重い本を沢山持つのはシンドイので、三冊位にしている。赤瀬川さんの「老人力」を借りた。話の途中で人の名前や、物の名前が咄嗟に出てこない。

「あの、ホラ、・・・、あれ・・・あの・・・」「うん、あ、あれね?・・・」相手も、ちゃんとわかっている。「エキスキューズ,マイ、シニア、モーメント」

これを即ち「老人力がついてきた。」という。{要するに、ボケてきた}事を老人力がついたというらしい。私も、大分老人力がついてきたようだ。まず忘れるのは、人や物の固有名詞、その物は頭の中にはっきりイメージされるのだが、口から出てこない。

次には、時間・空間・距離の感覚を、超越してしまう事。幼児のように東京も信州もどちらが近いか?遠いかそんなことどうでも良くなる。アフガニスタンも、天国も何処も同じだ。私が、身近な老人と接していた頃、これは、神様のご褒美だと思った。いやな事を覚えていない事は、しあわせだもの。

これも、赤瀬川流に言えば、老人力なのだ。

〇 御宿 かわせみ シリーズ   平岩弓枝

 前からこのシリーズは好きで、殆ど読んでいる。
今回は、「鬼の面」

私を育ててくれた祖母は、明治のはじめに田舎士族の家の長女に生まれたから、明治より江戸時代の武士の家の仕来りを忠実に守っていた。私は、強要されたことは無かったが、祖母の日々に「日本の女のかたちとこころ」を感じていたし、それを好きで,そうしたいとも思っていた。私の,時代劇好きの原点かもしれない。

 〇 昭和のはじめの子供たち 版画集  植木 須美子

 植木 須美子さんは,新潟にお住いで,80歳になられるが、写真を拝見するととても美しい明るいおばさまだ。現役ゴルファー、現役ドライバー,世界各地を旅行されるお元気な方。やさしい画風で,懐かしい私らの子供の頃を版画であのころの色のままに再現され、一枚一枚にユーモアと方言も交え解説も付けられている。どの画も,どのページもなつかしさで、涙が出るほど身近に迫ってくる。

私が,女学校で教えて頂いた国語の木下先生が卒業前の授業で,「貴方たちがこれから卒業して,仕事に付いても,結婚しても,おばーさんになっても, 一日に10分字を書く事,一時間文字を読む事を続けてください。」とはなむけの言葉を下さった。

あれからもう,60年以上過ぎたけれど忘れられない。

 

  

            塩船観音寺

 

          真っ赤なつつじ

  2002.4.8

 老いへの途

  〇 はじめての、眼科検診

お月様が,二重、三重に見えて,遠くの灯かりが重なって、ボヤケて見えると書いたのが去年の9月28日だった。その後、テレビを見ると、下に出る文字がよく読めなくなって、腰掛をだんだんテレビに近づけて見るようになった。 新聞も、文庫本もめがね無しで読めるので、「これは、若返って、老眼が近視に戻ったのかしら?」と不思議な思いで居たのだが、4月8日、今日始めて、眼科検診に行ってきた。

初診の受付は8時半からというので、8時前に病院に着き、行列のあとについた。診察券と、カルテを頂き眼科の前の椅子で腰掛けて待つ。9時少し過ぎから診察が始まる。殆ど、老年者の患者で、車椅子の人も、片方が病人の老夫婦とかもいて、亡夫に付き添って、病院めぐりをした頃を思い出して座っていた。

9時半、順番が来て、呼ばれて先ず視力検査、小学校の時のようにマルのどちらが開いているか指差す検査だ。2・0まで見えた私なのに上二段しか見えない。

50代半ばに、こどもに地図帳の地名を聞かれ、確か、この辺だと思うのだが見えなくて、それから、老眼鏡を使うようになった。でも、編物も、刺繍も好きな手芸は止めなくてもよかった。
60代で、ワープロを一日中打っていても平気で、健康な身体をくれた両親に感謝した。

 〇 変身!   遠くが、ぼやける。

マンションの六階に住むようになって、昼間ベランダから見る山や遠い家々も楽しく、感激していたが、昨年秋頃から夜空に輝くネオンがなんだか二重や、ぼやけて見えるようになった。コレハ?コレハ?どうゆうことなのでしょう?

歳をとるとこんなに成るのかしら?私の、夫も、祖父や祖母もこんなになったのかしら?
何も教えてくれなかった人達のことを考えた。「皆、歳をとればこんなものさ」 と思っていたのかもしれない。そういえば、私も、この頃、何となく右の耳が聞こえにくくなっている。さりげなく、電話を左手で取り、左の耳に当てるようになった。

 〇 診察  診断

いよいよ順番が来て、10時暗室で、検査。強い光を当てて、目の奥が見えるのだろう。

医師は、何にも言わない。一応の診察の後、瞳孔を広げる目薬を差し、30分待つように言われ椅子にかけて目を瞑る。時間が中々進まない。30分後、看護婦が、懐中電灯で目の中を覗き「もう一度ね」と又目薬を指し、もう20分待つ。11時になってしまった。

暗室の中で、強い光を当てて目の中を診察される。
サテ、宣告。「白内障があり、緑内障のおそれもある」「この次、眼底検査をして、進み具合に因って、手術の予定を考えましょう。」という診断となり、5月22日の予約を言い渡された。 以上、本日の経過報告です。

これから、79歳のわたしの眼科診療の様子を書いていこうと思います。必ず来る老いの道のりを、ありのまま残して、家族や友達の参考になれば?と思うので。

 帰り道、瞳孔が開いているので光がまぶしく馴れない街の車の往来がとても怖かった。

                                                          

   
            近所の八重桜

  

             雲間草

 2002.3.16

お鍋を、焦がしちゃった。  

 今年の春は、季節の進み具合が、異常なようで桜の便りも十日から、二週間も早いと報じられている。 私も、このマンションに移って、生まれて初めて暖房の要らない暖かな冬を経験した。寒い信州育ちが、アンカも敷き毛布も使わなかった。幸せすぎてボケてしまったのかしら? 今日は、お鍋を焦がしてしまった。切干大根に人参椎茸油揚げなど、色々入れて煮はじめた。 今までは、大鍋にイッパイ煮ていたが、一人分だからと小さい鍋にした。 水を充分入れて具が柔らかくなるまで時々混ぜながら、快調にいっていた。

この台所は、リビングと対面していて、大変便利に出来ている。時々、振り向いて、テレビも見られる。窓の外も陽光があふれ、見下ろす木々の先もなんとなく色着いてきたようだ。

ベランダは鉢花が色々花盛りで、皆一望の下に見渡せる。唄でも出てきそうに、煮物の匂いも上々 調味料を入れて、「上出来!」とうれしくなり、後は、火を細くして、味のしみこむのを待つだけ。火を出きるだけ小さくして、リビングの椅子に腰をおろす。   

ここまでは快調。・・・・・

チョツと編みかけの毛糸のモチーフを一枚だけ編みましょう。お隣さんも、お昼の用意をしているな。と顔を上げるとにおいの元は?「ウワーッ、うちだ!」  大好きな、ホーローの赤い可愛いおなべの底が真っ黒けになってしまった。

上側三分の二ぐらいは助かったけれど、底の黒焦げに椎茸も大根もペッタリくっついてしまっている。   

「アーア、ボケちゃったかなー」

 凄く、悲しい。 もっともっと、気をひきしめなくては。

母が晩年、お得意の梅ジャムを作りながら、寝てしまった事が有り、妹が、ガス報知器などを取り付けたこと、それでも心配で、自分の家にむりやり連れて行ってしまい、その後、どんどんボケていったことなどを思い出した。

 

     2002.3.16にもう桜 春は朧のボケボケ気分

 2002.3.11

「花の命は、短く」なくて   

 胡蝶蘭が、咲きました。

去年、引っ越し祝いに三本立ての胡蝶蘭の鉢を頂き、長い間、その花の、真っ白な高貴な姿に慰められ、励まされました。

花が終わってから、お礼肥えをして、その後も水をやり、日向に動かし有難うの気持ちで大事に見守ってきました。同じ部屋に寝起きして「又咲いてね」と話し掛けてきました。

一年過ぎて、今年二月に葉が二枚出ました。葉はぐんぐん伸び、花枝もでました。蕾が七つも付いています。はじめは、ごま粒ぐらいから赤ちゃんの小指くらいになり、人差し指の先ぐらいになり、とうとう、大人の親指の先ぐらいに膨らんできました。

「何時咲くかしら?」

朝目が覚めると先ず鉢のほうを見ます。ア、もうはちきれそう。 とうとう、咲きました。三月八日です。ほんとに、蝶の脱皮の様に、ゆっくりと広がっていきます。二番目の蕾は、明後日ぐらいになるでしょうか?去年から、取っておいた支柱を添えてやりました。

今年の世界蘭展の特別賞に胡蝶蘭が選ばれていました。大きな鉢に沢山の白い 花たちが、滝のように溢れ流れて素晴らしい形でした。私のはたった二本だけれど来年はもっと勉強して大切に育てて、たくさんの芽を出してもらいましょう。

「花の命は短くて、」と目に見える花は愛でても、花が散れば後はもう終わり・・・と捨ててしまう人も多いとか?花の命は土の中に生きているのに。時が来れば又、大きく伸びて美しく咲くでしょうに。

狭くて、暗い鉢の中に花の根はどんな思いで眠っていたのかしら?ただ、只季節の来るのを待って「水が欲しい」とも「寒いよ」とも言わないで。

いま、私のベランダは、つくづくと、こんなことを考えさせてくれる花たちが目覚めて、活動し始めました。「何時になったら出るの?」とやきもきさせられたけれど、もっと信じてゆったりと見守ってやればよかったとおもいます。アイリスも、水仙も、チューリップも桜草も、それぞれの命を、自然の精気の満ちる日を待ちながら息づいていて、人間がいくら焦っても、花にも個性があるのでしょう。無理に咲かせているお店やさんと時期が同じになるとは限らないのですもの。のんびりやの花だっているでしょう。

暗い、みにくい、いやーなニュースばかりが溢れるこの頃ですが、私の部屋は、白い胡蝶蘭の王女さま、赤いチャンチャンコのぼけのおばあさん、暫く外にほったらかされたアイリスのお兄さん、皆一年ぶりに再会したお友達に囲まれて楽しく暖かです。

 

  

            去年の胡蝶蘭

 

         今年咲いた胡蝶蘭

 2002.3.3

ひと足速い、お花見   2002・2・27

 如月、二月にもう私は桜のお花見をしに連れて行ってもらった。今年は、暖冬というけれどそれでも二月は一番寒い時なのに、もう桜が満開だと言う。

伊豆河津町の河津桜は、河津川畔一帯に8千本も咲き誇っている。一月下旬から咲き出すと言う。 はなびらが、見慣れた染井吉野などより大きくて、遠くから見ると桃の花かと思うように赤味が強い。近く寄って見上げると、桃色の花弁は中心部へ向かって濃い桃色にグラデーションしている。「しべ」もながく延びて堂々としている。花枝の中に、めじろか、うぐいすか?緑色の羽根の鳥がイッパイ集まって、枝を渡り、飛び交い密を吸っているのだろうか?

河津桜は、昭和49年に新種に認定された品種だそうで、以来町中の人達が大切に増やし河添えに植え続けてこの景観を育ててきたと言う。河の両岸に延々と続いて咲く様は、正に桃色の花の雲が空イッパイに覆っているようだ。木々の下の川原には、黄色の菜の花が帯状に植えられ、ピンクと黄色のコントラストがお互いを引き立てあって春そのもの。

澄んだ水の流れには、気持ちよさそうに泳ぎ回る魚の群れも見える。

 下流から、上流へ、橋を渡って反対側を下流へとゆっくり歩いて、只只、「ワーッ、きれい!」と感歎するばかり。

桜並木の土手に沿って、露天の食べ物屋、土地の野菜、鉢植えの草花、河津桜の苗などが売られている。でも、今までに見た桜祭りのような埃っぽさや、騒々しさが無くて、優しい感じがした。観光バスが何十台も来ているのだけれど、少し離れた道に、整然と並んで静かに見物客の帰りを待っている。老若男女の見物客は、皆優しい笑顔になって幸せそう。

 畑から切ったばかりの水仙を、一束買って「しあわせ」を抱いて帰路に着いた。

  

 2002.2.25

梅見行  

 新聞に梅花の便りがポツポツと出てくると、私はジットしていられない気持ちになる。 坂本冬美の唄ではないが、「凛として」、香り高い梅の花が大好きだ。蝋梅にはじまり、垣根の黄梅、そして紅梅、白梅・・・・・と。

今年はどこが早いかな? 前に行ったあそこも、此処もと思い描いて、まだ一度も行かない場所もあれこれ想像する。

地図を検索したり、路線を調べたり、宿を探したり、お土産を考えたり・・・忙しい。

思いがけなく急に息子が、「チョッと行ってみるか?」と連れ出してくれたりすると、断然若返ってしまう不思議なひとだ。

しっかり、名札などが整備された公園で、今年は、「月影」と言う枝も蕾も青い梅に出会った。「思いのまま」と名付けられた木の花は紅白を咲き分けると書いてある。なるほど、枝も所により赤い枝、白い枝が混じっている。名付け親になる人は、すごい詩人だなと思う。

子供の頃、我が家の庭に「豊後」という梅ノ木があった。祖母が「この梅の実は、大きくて美味しい梅干が出来るのよ」と自慢していた。本当に美味しくて、大きな赤い梅干を、弁当箱のご飯の上にデーンと乗せて、毎日学校へ持って行った。その梅ノ木は今も幹がひび割れて少し傾いできたけれど今も細々実を成らしてくれる。

概して、何処の梅園でも「しだれ咲き」が早く咲きだすようだ。

今年は、「府中郷土の森」と「越生」に行った。

私の一番好きなホンの少し咲き出した頃に出会えると最高にうれしい。

人出が多くなると、風に乗って砂埃が舞い上がり、折角の白梅が灰色になってしまう。香りも少なくなる。 
 今年も、良い梅見行出来て、「幸せイッパイ」になれた。

 

 

 

  

2002.2.5

春は名のみの   

 今日も、どんよりと雲が垂れ込めて、陽射しのないマンションの部屋は、薄ら寒く、何となく気が重い。このところ、風邪を引いたら一大事と部屋に篭っている。こんな時、私は、毛糸の入ったダンボールを持ち出して、編物をはじめる。

小学校二年生の春に、母に死なれ、長女なので学校から誰もいない家に帰ると一人で絵本を作っていた。絵を描き、クレヨンで勝手な色をつけ、吹出しにせりふを書き五、六枚出来ると表紙の紙を乗せて、毛糸を太い針に通して「和とじ」にし、題名を書き出来上がり。大勢の子供の前に立ったつもりになって大声で読んでひとり大満悦していたものだ。父が、帰ってくるまで、結構楽しんでいた。 父が、炊き立てのご飯を、「アチー、アチー」と言いながら、握ってくれる塩むすびがおいしかったなー。

朝、学校へ行くのも嬉しかった。受け持ちの女先生(柳沢せんせい}の家が学校への途中にあったので毎朝「先生、行きましょー」と家の前で呼んだ。先生は、まだ支度ができていないので「チョッと待っていてね」と玄関に入れて、赤い毛糸の玉とかぎばりを渡して、編み方を教えてくださった。くさリ編み、短編み、長編みを次々習い、先生のお家の玄関で毎朝編みながら先生の出かけられるまで待っていた。之が、私と編物の出会いだった。

その頃、女の子の遊びは、まりつきで、皆自分の顔ぐらいのマリを袋に入れてかばんに結び付けて持ち歩いていた。私の作品第一号は、そのマリを入れる袋だった。お友達の袋も編んであげた。そのまま、あみもの大好き人間に成長し、自分のものだけでなく、吾が子の頭のテッペンから、足の先までは勿論、人様のものまで楽しんで編ませて貰った。

今は、たくさん残っている毛糸で、ちいさなモチーフを暇あるごとに編みためている。配色を考えながら繋いで、わたしの夜具にしようと思っている。

手先を使っていると、ボケないそうだから。  

春は名のみ・・・も また楽しい。
 

  

 2002.1.21

 オリオン星座   

 「沓掛先生が、今夜、シクチョク(宿直)だって!」

お昼の弁当を食べながら、A君が大声を出した。 私が小学生の頃は、六学年各一クラスしかなくて、全校で校長から、小使いさんのおばさんまで入れて十数人の職員しかいない田舎の小学校だった。先生達は、交代で、一晩ずつ宿直をして、学校の警備や、突発事故に備えていた。受け持ちの沓掛先生の宿直の晩を私たちは心待ちで、大ニュースなのだ。

お餅とか、漬物とか、干芋などを少しずつ持って、夕方から、狭い宿直室の炬燵の周りに押し合いへし合い集まって、教室の先生と違うお兄さんみたいな先生とふざけ合った。炬燵の布団や、やぐらをどけて、お餅や芋を焼いてかじった。

暗くなると、皆でかたまって、シンシンと冷たい空気の校庭に出て、まるで降ってくるような満天の星を見上げた。「チョッと曲がった柄の、大きな柄杓のような星座を見つけてごらん」と先生がいう。

皆、360度の空をグルグルと見回す。誰かが「あれかな?」と声をあげる。「そうだ。あれが北斗七星だ」皆、口をあけてそっちを見上げる。「左側の二つの星をつないで、ズ〜ッと上のほうへ見ていくとひとつ明るい星があるだろう?あれが、北極星だよ。あの星を、見つければ、海の上でも、山の中でも、北の方角がわかるんだよ。」  「反対側は、南だね。」「サー、今度は、南の空で長方形の星をみつけよう。ほら、あのあたりだ。真中に横に三つ並んだ星があって、そのそばにイッパイかたまった星が見えるね。一升星とも言って、一升枡の米をこぼしたみたいだろ?その下にも縦に三つ並んだ星がみえるね」「この星座が、オリオン星座というんだ。星の並び方は、何万年も変わらないんだ。」

身体は、震えるくらい寒いけれど、感動で思いっきり目を見開いて、先生の指差す方を見つめていた。 「オリオンって、なに?」「よし!、じゃあ、炬燵に入ってギリシャの昔話をしようか?」「ギリシャの神話に出てくる戦いと狩の神様が、星になって人間を守ってくれているんだ。横に並んだ三つ星は腰の帯、縦の三ツ星は帯に吊った剣の形だろう。」

 先生の話してくれる外国の話が、不思議で楽しかった。ギリシャ神話から覚えた外国語が、いまだに頭の中にのこっている。この先生から、わたしは生き方の根っこを作っていただいたと思っている。5年前に先生が亡くなるまで毎年、同級会を続けてきた。いつも、いつまでも、先生に教えられた。

先生に会えた最後の時も、「おまえ達は、21世紀を見てからおいで。そして又、色々、話してくれよ。」とはげまされた。 同級生も、ひとり欠け、二人欠けもう会えない人が多くなった。年賀状が、届かない人もいる。

 今、ベランダで、真正面にオリオン座をひとりで見つめていると、70年以上も前の子供にかえって、みんなを思い出す。   星は、ちっとも変わっていない。

 

         

  

 2002.1.11

「コイツアー、春から,縁起がいいワイ・・・・」  

くろぼけの蕾が,膨らんだのを発見して大喜び「何時咲く?」と書いたのが12月24日

今は,30輪も全開、まだまだ咲きそう。9月の誕生日に貰った木立ベコニアは,今も咲き続け,クリスマスのポインセチアは真っ赤に葉を広げ,暮れのシクラメンは、大小ピンクに、白に,赤にと煩いほど咲いている。カランコエが、赤白二鉢棚の上に並んで花盛り。

今日は,1月10日,ベランダの寒さに少し弱って運び込まれたハイビスカスが親指の先位の蕾を突如葉陰から顔を出してきた 。まさに「こいつぁ 春から・・・」と声色をかけるところだ。白い蘭{シンビジューム}が二房垂れ下がって花開き始めた。

この部屋は,夜も,昼も20度C以下になることはない。天気がよければ,陽射しが部屋の真中まで入る。まさに、温室の中にいるようなものだ。殆ど,暖房器具は使わないのだけれど。

日が落ちて,北風がピューピュー吹く夜になっても,外の気温に同調する事は少ない。機密性にすぐれ,上下左右のお宅からの熱も影響するのだと思う。信州生まれで,寒さの中で育った私にすれば、別の世界のような冬だ。 
花たちも,「今年は,なんだか変だよ」と思っているだろう。雪を被ることも無く,北風にさらされることもなく、只,のどが乾いているだろうと、水だけは気をつけて,鉢の土を心して指先でさわってみる。日当たりを気にしたり,花たちに言葉を掛けたり,結構忙しいけれど。蕾を見つけ,膨らんでくるのを毎日楽しんでいる。  

スノードロップも,明日には、二輪咲きそうだ。