80バーさんのつぶやき

2002年のつぶやきU

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2002.12.5

 黄金色の散歩道   

 ニ、三日寒い日と雨の日が続いていたが今日はポカポカと小春日の良い天気になった。朝の掃除洗濯を済ませて少し歩くことにした。銀杏の落ち葉が散り敷いた黄金色の道を歩いた。
豊田の街路は広くて、車道と歩道の境界がしっかり街路樹とツツジの低い縁取りが整備されている。通り毎に銀杏並木 、桜並木、欅並木 等があるが、何処も整然と植えられよく手入れがされて立派に育っている。
春の花,夏の青葉の作る日かげ、秋の紅葉、冬には日ざしが柔らかく、歩く人の心を慰める。
今は、歩道いっぱいに散り敷いた銀杏の落ち葉が、昨夜の雨にべったり重なって黄金色の道になっている。靴の底にやわらかく伝わる感触は田舎のあぜみちを歩いているようだ。

 私は、父や夫の転勤が多くて、随分色々な所に住んできた。栗林の中の大きな農家の一部だったり、村が用意してくれる教員住宅だったり、北は、東北秋田の鉱山の社宅,山に張付いたハーモニカ長屋で、雪の夜には屋根の隙間から粉雪が顔の上に掛かったこともあったっけ。南では,大阪の中心街,天満橋筋や,京都の宇治川のほとりにあった家、 新潟の海岸でシベリヤ直輸入の北風がまともにぶつかって来る家にも・・・・それぞれ2・3年から10数年ぐらいずつ住んだ。   「また、転勤?」と悲しくなった事もある。

この晩年になって豊田へ移ってきたのは,夫のお墓が近い事も在るし、この町の緑の多さ,広い道路と街路樹にすっかり心を洗われたようで,残りの人生を優しく過ごせるだろうと思ったから。夫も私も故郷は信州で,父母や兄弟の思い出にも近い。良い所に落着いたと思う。
 銀杏の落ち葉を踏みながら、何か勿体無いような気持で歩いている。

「転ばないように気をつけなさいね」と皆さんにご注意を頂くけれど,背筋を伸ばして楽しく歩けるのは,何とも幸せな事だ。 此の頃は,老人向きの軽くて滑らない良い靴があってとても歩きやすい。 
 疲れるところまで歩いて行って,帰りはバス停で 腰を下ろしてバスを待って帰りましょう。バスの窓からまだ知らない景色を眺めるのも楽しいから。

   もうすぐ今年も暮れる。  小春日の幸せを満喫しました。

  

   

2002.11.13

  お酉様と絹の道    

 久し振りに秋晴れの暖かい日になった。
11月.13日は、今年の弐ノ酉の縁日だった。今年は参ノ酉まで有るそうで寒くなり、火事が多い歳だといわれている。始めて、お参りに連れて行ってもらった。
八王子のお酉様の近辺は、歩道に隙間の無いほどに屋台の店が並び、人の往来が何時もより多い。午後からは、もっと、もっと人が出ると言う。ビルの谷間に紅葉し始めた森があり、その中に赤い鳥居と御社が鎮座していた。
金ピカの大小さまざまの熊手や、縁起物の店がびっしり並び、時折お買い上げの手拍子が響く。お参りをして、おみくじを引いて、熊手を買って、べッタラ漬けを買って子供のように大喜び。人の沢山いるところは楽しい。おみくじは、「焦ってはいけません。落着いて」とのお告げでした。

  人なみに 押されて来るや 酉の市    虚子

 べッタラ漬けの匂いを少し気にしながらその後、息子の車で鑓水地区の「絹の道資料館」へ連れて行ってもらった.。この資料館になっている所は、この地の名主で豪商だった八木下要右衛門の屋敷跡だという。建物は近くの永泉寺本堂として移築され、母屋の礎石、蔵跡、建物の柱跡などが発見されているのだとか。山から湧き水を引き入れて、石積みの水路や池を作り洗い場の跡なども残っている。幕末、横浜開港の前後等の古文書や、豪華な天井絵、彫刻の欄間、美術工芸品などが鑓水商人の遺産として残されている.。
この辺の豪商達は,近在の生糸を横浜まで十里の道を峠を越えて運んだのだそうだ。   

私も子供の頃、信州で養蚕を手伝った。山畑から桑の葉を摘んで背負って運び、ごま粒より小さい「お蚕さま」から四眠を経て上族(繭になる)までを3回も4回も繰り返す.。家の二階も三階も蚕室で、家族は夜も昼も目が離せない.。やがて、マブシに並んだしろがねの繭を取り上げる「繭かき」の嬉しさは今も忘れない.。大黒さまの袋のような白い袋に入れて集荷場へリヤカーに積んで運ぶ時はなんとも誇らしい気分だった。養蚕農家は、田畑 の仕事と並行して桑摘みもあって、ものすごい労働だった。子供も老人も黙って己の持分をこなす。その代わり唯一の現金収入になる。だから、「お蚕さま」とよんだ.。少し残した繭は、台所の鉄鍋で煮て、糸に手繰ったり、真綿に広げたりして家族の着るものにした。こうした労働や、体験をした者が、だんだん少なくなった事と思う。私も、いつまで古い事を思い出しながら書いていけるだろう?

「絹の道資料館」の柱や、間取りや庭の佇まいに艶やかさが残っていて、かえでは赤く、樫の木は黄色く、見る者にやさしく笑みかけていた。

 

  

 

2002.10.30

 ざくろの実   

 ルビーのように、透明な赤い粒々がぎっしりと詰まった大きなざくろの実を頂いた。亡夫と40年住んだ家の庭にもざくろの木や、アケビの木など、実の成る木がたくさん有った。田舎育ちの彼は、子供のときに、木に登って楽しい思い出をたくさん持っていたのだろう。
天神様の植木市で1メートルも無い幼木を買って来た。大切に植えて、慈しんで育てていた。何度も、枝先の鋭い棘に刺されて、指先に血をにじませたものだ。
何年も、小さな、オレンジ色の花が咲くばかりで、中々実が付かなかった。桃・栗3年,柿8年・・・というけれど、ざくろはどうなのかしら?夫が体が弱って,唯一の楽しみだった庭木の手入れが出来なくなって,本職の植木屋さんを頼むようになってから漸く実が付くようになったが、食べられるほどにはならないままだった。毎日,庭に出て丹精していた姿や,ベッドから庭ばかり見ていた姿がわすれられない。
パックリと,笑み割れたおとなの拳より大きな実の中に,真っ赤な粒がお行儀よく並んでよく熟した,こんなざくろを食べさせたかった。
頂いたざくろを写真の前に供えて,「イッパイおあがりなさい。種は飲まないでね。」と話し掛ける。「ボツボツ,お父さんの好きな白鳥が,冬を感じて日本の沼に来始めましたよ。新潟にいた頃,寒さの中を瓢湖まで白鳥を見に行った事がありましたね。コーイコイコイ・・・・とえさをまくおじさんの声を真似て,我が家の庭に鳥を呼ぶんだなんて言ってたりしていましたね」

 あたらしいハーモニカが届いたから,お父さんの好きな歌を吹いてあげましょう。

♪雁がわたる,鳴いて渡る。鳴くは 嘆きか?
            よろこびか?
     月のさやかな秋の夜に、さおになり、
                かぎになり渡る雁 おもしろや。♪

「今年の冬は,急速にやって来そうです」と気象予報官の言葉が,付け放しのテレビから聞こえてきた。

 

    

     

2002.10.25

  ハーモニカ    

 この所、チョッとハーモニカにはまっている。

誰に教えて貰ったわけでもないが、知っている歌なら何とか吹ける。子供の頃、夕暮れの縁側で、よくふいたハーモニカ。まんしょんに移ってきて音が漏れない事に気がついて、ふとハーモニカを手にして、吹いてみた。

  ♪ 兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川・・・・♪ とか、

 ♪秋の夕日に 照る山もみじ・・・とか、思いつくままに。

はじめは、ソーッと小さく、そのうち、だんだん力をこめてふいている。何年も吹いていなかったので、すぐ息が切れて、咳き込んでしまったりしたが、だんだん思い出してきて息の調子もよくなってきた。前奏をつけたり、ちょっと複音を混ぜたり、生意気に、今流行の「大きなのっぽの古時計、おじいさんの時計」などにも挑戦 してみたり。
   先日、大昔の教え子(皆70歳過ぎ)たちが大挙して訪ねてくれたとき、そんな話をチョッと披露したところ、さっそく、一人が「ハーモニカで綴る想い出の歌」というCDを10枚にプレイヤーまでつけて持ってきてくれた。尋常小学唱歌第1学年から第6学年までの教科書と各学年別全曲のCDも届いた。うれしくて、うれしくて先ず1学年の第1ページ、♪ 白地の赤く、ひのまるそめてー・・・・から一つずつ唄ったり、ハーモニカで吹いたり、80バーさんは今、幸せの絶頂と言うべきでしょう?
「後ろばかり向いて!」といわれるかもしれないが、この歳になるとヤッパリ行く末を思うより、来し方を懐かしむ方が楽しい。音の流れの底から、あの幼い頃の風景がいっぱい、いつぱい湧き上がってくる。
  小学2年生の時、母が亡くなり、祖父母に預けられ転校した。ある日、父が突然、教室に入ってきた。母の無い子の転校先に様子を見にきたのか?音楽の時間だった。事情を知っている受け持ちの先生は、オルガンの傍へ私を呼んで♪あきの夕日に・・・を独唱させた。
父を見て、嬉しさと恥ずかしさで泣きながら歌った情景と柳沢よしみ先生のやさしさが今でも私を涙ぐませる。つい昨日のことのように。
転校を何度かしたが、4歳下の弟は祖母にあずけられ、私は父と二人だけで学校のちかくの農家に部屋を借りて住んでいた頃、夕暮れになっても父が帰ってこない。待ちくたびれて、所在無く玄関の板の間で、知っている限りの曲を吹いていた。たくさん、たくさん吹いてもまだ、父は帰って来ない。遂に、でたらめの作曲をしながら自分だけの曲を吹きつづけていた。遠いむかしのひとコマだ。
 今は、両隣への気兼ねもなく、密閉された部屋の中で、古くなって少々調子が狂って、一つ二つ弁が無くて音が飛んでしまうハーモニカを身近に置いて、気が付けば手にとって鳴らしている。昨日、息子が、インターネットで新しいハーモニカを注文してくれた。近々送られてくる 新しいハーモニカが!

 雨が降ろうが、風が吹こうが私の毎日をたのしくしてくれる。
なんと、しあわせなことでしょう!

            

 

           

          古い複音ハーモニカ

 2002.10.21

ホトトギスの花   

 この所、秋の長雨と言うのか?毎日雨模様の日が続き、空は暗く空気が湿っぽい。散歩にも出られず、家の中で小学校で習った唱歌[四季の雨]などをくちずさんでいる。

 @降るとも見えじ 春の雨 水に輪をかく波なくば 

  けぶるとばかり思わせて  降るともみえじ 春の雨

 Aにわかにすぐる 夏の雨 物干し竿に白露を

  名残としばし走らせて 俄かに過ぐる夏の雨

 Bをりをりそそぐ 秋の雨 木の葉、木の実を 野に山に

  色様様に染めなして をりをりそそぐ秋の雨

 C聞くだに寒き 冬の雨 窓の小笹にさやさやと

  更け行く夜半を訪れて 聞くだに寒き 冬の雨 

 子供心にも、なんとなく哀愁を覚えて、好きだけどチョッと悲しい歌だと思ったものだ。

湿っぽい空の下に、ホトトギスの花が咲きだした。 

笹のような葉が、緩やかにしなう茎にびっしりついて鉢を覆っていたが、夏うちはその存在を忘れていた。この所急に茎の先にボールペンの頭のような尖ったつぼみが濃紫に色づき、ぐんぐん膨らんできて、一番先の蕾が開いた。花の色や、模様が鳥のホトトギスのお腹の模様に似ているからホトトギスと命名されたという花だ。
お茶席に良く使われる渋い花だ。六弁の細い花弁の中央に同じ色模様の雄しべ、雌しべが長く突き出て花火の様に開く。目立たない地味な色をした花だけれどよく見ると精巧な機械部品のように美しい。
開いた花は、真直ぐに昂然と天を向いて立って咲く。春から夏の間、鉢は隅のほうで葉だけ太らせていたが、今はベランダの一等地に威張って置かれている。一本の茎に3.4輪、多いのは5輪もつぼみがついて出番を待っている。ベランダには雨が当たらないけれど、夕暮れのようにもやった日にとてもふさわしい花だ。
人間だって、一生の間に、一瞬の輝きを見せるときがあるもので、その時期は「神のみぞ知る」ことかも?しれない。私は、何時一番かがやいていただろう。いのちの終わりに近づいて此の頃考えたりする。「その時、その時いつも一生懸命だった」と言えるだろうか?
 

      

         ほととぎす

2002.10.18

十三夜   

  今夜か、明晩の月が、13夜だ。

でも天気は下り坂で、西に方から雨が近づいている。ゆらゆらと上がる月が見えるかどうか?4・5日前の午後4時頃、南の中空にほの白い半月が見えた。まだ、夕暮れに間のある白みの勝った南の空の真中に昼の月が、秋の深まる夕方を感じさせてくれた。
日の暮れが少しずつ早くなってきて、日が落ちると昼の暑さが急に衰えて空気が冷たい。 
  北朝鮮に拉致されて、一時帰国して来られた方たちの日々が、新聞、テレビに盛んに報道され映し出される。24年もの想像も出来ない悲しさ、苦しさを考えると、そっとしておいて上げたいとも思うのだけれど。
   私は、ベランダの鉢たちを眺め、葉や枝に触れて「ホトトギスの花が咲き出した」[カクタスの蕾が膨らんだね」「カランコエはまだ蕾が出ない」「 庭から堀上げられ6階のベランダに連れてこられた椿は3年目にようやく蕾がついた」などとつぶやいている。
この静かさは、大きな幸せだと痛感している。新聞種にもならず、人様に干渉されず、一人暮らしは穏やかで、平凡ながら平穏だ。人間の一生は、運命として決められているのかも知れない。実に人さまざまで思いもかけない流れに浮いたり沈んだりするけれど、草花や、木々のように自然の流れに逆らわず、与えられた姿に少々の個性を見出して、少しは人の役に立って、「もう、いいよ」と神様に言われるまで余り目立たないで過ごしたい。

今日は一日、祖父と、父の残した文章を読んでいた。明治40年前から、大正、昭和10年の頃に信濃公論、信濃毎日新聞などに載ったものらしい。
百年以上の月日を経て、生活の形態は大変化しているけれど人間の思いは余り変わっていない様に感じた。  

 十三夜の月も、どうぞ、変わらぬ光を投げかけてください。

 

 

   新潟の秀明菊

2002.9.24

   このごろ出会った「しあわせ」    

@中秋の名月
 今年は,9月22日が中秋の名月だった。 月が昇って来る頃あいにくうす曇りで残念。
今日は見えないか?と思ったが、中空にかかってからは晴れてよく見られた。お月見団子を食べてしまっていた。 前日の14夜はすばらしい月の出を見ることが出来た。白内障のせいだろう?丸い月が3重4重に重なり,オマケに周りをほのあかりが大きく取り巻いて光がぼかされるから、まるで小学生の描くデッカイ太陽を黄色に塗ったようだった。「お初におめにかかります。」と御挨拶したい気持ちだった。

Aお彼岸
  「暑さ,寒さも彼岸まで。」と昔から何度も聞いたり言ったりしてきたが、全くその通りと今年も思う。今年は特別暑かったと、これも毎年同じ事を言っている気がする。でもこの2・3日急に涼しくなって、夕方にはカーディガンを一枚羽織りたくなる。せみの声も何時の間にか消えて,今はもうあおまつむしの合唱が林の中から湧き上がってくる。
「ジージージー」「ミーンミーン」「カナカナカナ」「・・・・・来年も又聞かせてね!

 B花便り
  長野県の田中知事選挙の騒ぎを契機に、毎朝検索でふるさとの新聞を覗く楽しみを見つけてしまい、すっかりハマッテいる。ことに,「花便り」を見るのが嬉しい。知っている山や川や町や村の名前と、今を盛りの花たち,これから見頃になる花の写真に見入って昔日の想いに浸る時間が至福のときだ。此処に居ながらにして,ふるさとの「いま」をみることができる。今の私の眼は,遠くが霞んで何重にもかさなってよく見えないがパソコンの画面は距離も明るさも丁度良いらしく,ハッキリ見えるしあわせ。時間と体とお金を使って会いに行き、触れてみる旅も好きだが一瞬にして県内あちこち折々の花たちに会える嬉しさ。

 C生きている幸せ
  9月は敬老の日があって、市が老人検診の面倒をみてくださる。近くの医院で数々の検査をして頂いた。「何処も大した異常は無いですよ。歳の割には元気だし,何でも食べて,あちこち散歩をしたらいいですよ。」との御託宣を頂いた。来年もまた花を見,月を見、蝉の声も聞くことが出来ますように!   02・9・24

  

2002.9.21

  「2−1=1」 ではない。

  遠景の山々をさえぎっていた近くの木々が、葉を落とし始めた。枝の間が透けてきた。山の上の鉄塔ももう直に見えてくるだろう。桜の木の葉も、早く咲いた順に色を変え、落葉を始めた。ひまわりの花も首を垂れている。季節が、秋へと動いている。此の頃連日 引き算の悲しいニュースが多く、国の内外からごまかしや、ウソや、暴力のニュースが次々と出てくる。
大勢の若い人達が朝鮮に拉致され、何十年も待ち続けて、果ては、死亡と知らされたむごさ、おそろしさ。「どうして?」「ひどすぎる!」 言葉にならない。
主人に先立たれて一人で暮らすようになった時、[2引く1は1じゃない!]と思はず口から出た言葉 だった。友達や、周りの人は[皆、そうなるのよ」「ガンバッテ」となぐさめや励ましを下さったけれど、他人にはわからないことだ。季節は、何も無かったようにいつものように動いている。
でも、人間は、つくづくおそろしい「もの」だと思う。 たとえ、100年経ても事実は残って、色々の事象の原因になっていく。後世の人達の憶いの中ににかくれて何時までも息付いているのだろう。
日々刻々を積み重ねることの重大さ、これが人間の業(ごう)と言うのものだと思う。
私も、せめてこれからの生きる時間を、天に恥じない、神様に叱られないように 重ねて行こうと思う。   02・9・19

 

 

2002.9.3

8月・「去りゆきし者と、残されし者」

 8月は昔からのお盆の月で、お墓参りをしてご先祖様をお迎えしておもてなしをし、生かされている幸せを感謝する。その上私の年代のものは、戦争を通ったので、原爆の日、東京大空襲、終戦の日などなどあまりにも多くの悲しい事を思い出し、今自分の生かされていること、去って行った人達に支えられ、導かれている事を思う月だ。
小学校の同級生は、高等科を出ると一兵卒として、または少年兵となって、空に,海に出征し、学徒動員令が出ると学業半ばの高校生も大学生も,学生服にゲートルを巻き銃を担いで戦地へ動員された。女子学生は,農村の手不足を補う為に田畑の仕事をしたり,軍服の修理や負傷兵の看護の手伝いや,軍需工場の旋盤工まで勤労奉仕と言う戦いに動員された。ふだんは,出来るだけ思い出さないようにしているが、この月ばかりは思い出すことが多く何時もと違う胸の苦しい日々となる。
今年,親戚の兄みたいにしていた人が逝った。彼の母と私の父が従姉弟だったから、私たちは,マタイトコというのかしら。私が,女学校に入って祖父母の家から通学していた頃,彼は,高等学校生で、弊衣破帽下駄履きで汚らしい格好で威張って歩いていた。父達は共に教員で信濃教育界で意欲旺盛な活躍をしていたが子供らに往来は無かった。
彼は学校の寮か下宿に居たのか良く祖母の家に来て食事をしたり,昼寝をしたりしていた。「図々しい奴」と思ったりして余り話などしなかった。「これ読んでご覧」ある日差し出された文庫本は「狭き門」アンドレ・ジッドだった。小学校の図書室では見たことの無い本だった。吸い取り紙みたいな私はチョッと難しかったけれど,通学の往復や,休み時間も夢中になって読んだ。「読んだか?今度は之を」へルマン・ヘッセの「車輪の下」だ。マーガレット・ミッチエルの「風と共に去りぬ」大久保康雄訳 日本で翻訳された初版本だった。赤・黄・緑のハードカバーの三冊になった豪華版だった。1860年代のアメリカ南北戦争の頃ことなど何も知らなかったし,アメリカの女性スカーレット・オハラの行動力や考え方に眼を見張ったり触発させられた。すこし、ワルな、レッド・バトラーにチョッと恋 した。
兄さんが、別に読後感等聞くこともなく、次々と持ってきてくれるこれらの本たちに私はその後の人生観、宗教観など人間の大切な「種」を蒔いて 貰ったと思って感謝している。

この人も、学徒動員で南方戦線で死線を越え、5年のご苦労を経て帰還し、もう一度学校に戻り、卒業後は長野県の教育界にしっかりと大きな足跡を残した。

戦争が終わって57年過ぎ、戦争の在った事も知らない人が多くなったけれど、私は昨日の事のように忘れられないで居る。

今年の8月も終わった。

 父母も祖父母も夫も、恩師も 同僚だった人達も、同級生も教え子も・・・・沢山の人が私の周りから去って逝ってしまったけれど、私の『今』は、何もかも去って逝った人達から頂いたものだと思う。

残されているものもいずれ去り行くもの。私の日々も又今後子や孫や多くの出会った人達になにかを残してゆく事になる。良い思い出が多いと良いのだけれど。面白いおばーちゃんだったね。等と思い出してくれたら嬉しいな!

    02・8・31

  

  

  

2002.8.12

紫の宝石・ブルーベリー摘み

 私の住む市には、10何軒か、ブルーベリーを作っている農家があって、先日市報に無料摘み取りの募集が載った。さっそく、往復はがきで申し込んだところ、当選の返事があった。

一家族3人まで,500グラム、無料で摘み取り体験をさせて下さるという。摘み取りながらの試食は自由とのこと。我が家の家族3人、「ブルーベリー摘み取り農園 」の、のぼりの立つ畑に向かった。〇〇日午前9時と指定されていた。

日除けの帽子に、サングラス 長袖シャツに首にはタオルを巻いて物々しい支度。ブルーベリーが、生っているところを見るのも、摘み取って食べるのも、初体験。

快晴の青空,陽射しは強いけれど気持ちのよい朝だ。地図で一応調べてきたので案外近くて第一番に指定の農園に到着。500グラム入るプラケース一つをもらって畑の中に入る。 200〜300坪かと思われる畑は、黒土で柔らかく、いまどき珍しい麦わらが敷詰められている。畑全体を青色の網で覆っているのは、熟してくると,鳥が来て食べられてしまうので鳥除けの網だという。木の高さは、2メートルそこそこで、間隔は1.5メートル位の畝になっていて、一本の木の周りをまわりながら実の熟し具合を見ることができる。

枝先にビッシリと実が付いている。先のほうはうすいピンク、だんだん赤が濃くなって、下に行くほど紫が濃くなっている。ブルームと言う白い粉がついて,葉柄まで紫に変わってきた粒が熟したものらしい。実の形は「一位」の木の赤い実に似ている。もう少し大きいかな? 私の小指の先位だ。

まず、その色の美しさに感歎の声をあげた。「なんて、きれい!なんて、かわいい!」

とても、つまんで取る気がしない。

だんだんと家族ずれが増えてきて、思い思いの木の前で、みんな「かわいい!きれい!」を連発してみとれている。どれをとろうかな?の前に、造化の不思議な美しさに感激して。

下の方の濃い紫の実を一つ、ソットつまんで口に入れ、プチンと噛む。甘く、柔らかい。

「お母さん、この木、とても甘いですよ!」と向こうの方で声がする。「葉柄が赤いのは、スッパイみたい」 「おう、この木はあまいぞ」みんな楽しそうにそれぞれの場所で声をあげている。老夫婦のお二人は一本の木の前で,「これ甘いですよ」「どれ、どれ」とお互いの口に粒を入れてあげている。父と母と子供とみんな童心に返って楽しそう。優しい、幸せな空気が畑じゅうに流れている。

パック一杯500グラムは無償でいただけるのに、箱に入るより、口に入ってしまう方が多いみたいだ。

網で囲まれて、柔らかい畑土と、農家のかたの愛情に育てられたブルーベリーの味の良さを満喫させて頂いた。

パック一杯の紫色の宝石、ブルーベリーは、早速家に帰って、ジャムに煮ましょう。

だいぶ、日が高くなった。幸せ一杯のお腹で朝の道をかえった。  

 
     ブルーベリーの畑

 
  濃い色ほど熟しているみたい。

 
   ピンクもきれい。

 2002.8.6

せみしぐれ

 「おとうさん、けさ蝉がなき出したよ。きこえた?」 朝ご飯を黙々と食べている主人に声をかける。主人は、「いいや!」と口の中で返事をしながら首を横に振る。

その頃住んでいた家は、庭イッパイに立ち木があって、梅雨が上がると油蝉の合唱が始まる。私は、毎年「ジー、ジジー・・・・・」と鳴きだす日を心待ちにして、「サー、夏本番だ。負けられないぞ!」と体力の落ちてきた老夫婦の夏越えの日々に決意を新たにした。
その頃、主人83歳、私75歳、文字どうりの老人家庭だった。耳が、遠くなって当たり前だけれど、会話が少なくなり、一人一人が何となく日を送ってしまうようになった。私の方が若いのだから、出来るだけ声をかけなければと思い、何か新しい出来事をきっかけに話を始めるようにした。

次の朝は、蝉の声も大分大きくなったので、「今朝は聞こえる?」
「い・い・や・・・・」

「ダメだー、コリャー」大分耳が聞こえなくなっているな、もう、蝉の話は止めよう。益々身体に自信を無くしてしまう恐れがある。夕方、「カナ、カナ、カナ・・・」とひぐらしが鳴き出した。これは、トーンが高いからどうかしら?と主人の顔を見たが変化なし。私は、言葉を飲み込んでしまう。

眼は白内障と緑内障で眼内レンズとコンタクトの上に眼鏡もかけて、視野もとても狭くなっている。あんなに信州の山を歩き回って、8ミリ映画を作り、録音機まで担いでいたのに、足腰もすっかり弱ってしまった。歩き慣れた我が家の庭でさえ、よくころんで起きられない。人間、鍛えていれば良いと言う物でもないようだ。

老人になるということは我が身に来てから気が付くものらしい。聞こえない、見えない、動けない。情けないものと思う。ひたすら、真っ直ぐに前を見詰めて歩いてきた人も、80歳を越えてまだ、絶対弱味は見せないぞと頭を上げて生きている姿も時には、「もっと楽にすればいいのに」と思ったりした。

庭のあちこちに蝉の出てきた穴が開き、木の枝には佃煮?が出来るほど抜け殻がくっ付いて、近所の子供らが「せみ、とらせてくださーい」と捕虫網をふりまわす庭になると、嬉しそうな顔で黙って縁側に腰掛けて見ていた。

蝉の声が、少し弱くなると、今度は、青マツムシの天下になる。「りゅーりゅー・・・」と一晩中うるさいくらい鳴いている。あれも、主人には聞こえなかったのだろう。

耳や、眼、脚もすっかり弱った。いつも、背筋をピーンと伸ばして真っ直ぐ前を見てさっさっと歩いていたのに、病院への行き帰りもすっかり遅く危なっかしい。   いままで、

精一杯頑張ってきたのだもの,聞こえないものは無理に聞かなくていいじゃない?見えないものを無理に見ようとしなくていいじゃない?みんな,神様の思し召しなんだから。

 豊田に越してきて二年目なった。一人暮らしも大分上手になったと思う。

夜が明け始めると、ジジージージーの油蝉,日が昇ってくるとミーン,ミーンが加わり,夕暮れには カナカナカナ・・・・・  とひぐらしがせわしなく声をあげる。

まだ聞こえているつもりだけれど,聞こえていないものも在るかもしれない。

与えられるお恵みをを有難くいただいて毎日幸せです。   

 

 

  あぶら蝉の抜け殻