【そのC拾った命、戦争があと半年続いたら・・】
これは戦争末期『商船学校生徒館』の同じ分隊で死と向き合って暮らした少年たちの50年後の物語である・・・


◎病気で逝った隊員達・・
 二十分隊員の健康環境には戦後2回大波がきている。1回目は終戦直後から20歳代のとき。船員労働の苛酷と蓄積疲労・結核の蔓延・医療の不備が原因だ。殆ど8割が病気を経験、その2割がなくなった。
 第2波は50歳代のとき、ガン・心・脳疾患で働き盛りを惜しまれて逝った隊員が何人もいた。
 頬がこけ、眼光鋭かった船長・機関長の目付きが穏やかになり明るい笑顔で『この会で飲む酒が一番旨いよ』と悠悠と飲み、奥様連れの旅参加が多くなり迎えのバスが満員で、気がついたら分隊員もいつの間にか65歳を越え、みんなひと仕事終えていた・・

海王丸(1)

◎越前がに食べ放題・・グルメの旅
 福井県三国港に住む分隊員の案内で 芦原温泉に蟹を食べにいった旅はすばらしかった。11月10日の蟹漁解禁直後をねらったグッドタイミングで、老舗旅館の宴会は茹でたばかりの越前がにを座敷の真ん中にデーンと据えて 仲居さん総出の接待だった。
 越前がにの雄「ずわいがに」は足の肉に定評だが、雌の「せいこがに」も小さいながら 赤肉・卵巣・みそに雄以上の珍味がある。
 ただ分隊出てから55年、この会も42回目となると 宴席は懐かしさ楽しさ話が先で、蟹をほぐす暇がない・・。

福井にて

◎もしかして この娘も教え子?・・・
 商船学校卒業者は 申請すれば 英語か数学の高校教員免許がとれた。元福岡高校長の分隊員夫妻が案内してくれて 二日市温泉から玄海灘の鯛とイカの踊り喰いにいった時のこと・・・

 この奥様が元校長の教え子とは分隊員羨望衆知の事実だが、宿に入った途端、別にもう一人可憐な美女が現れて、宴会中は勿論、泊りがけで翌日の解散まで渉外と支払い代行に駈け回ってくれる。みんなこの娘もきっと教え子?と思った・・・

 実は唐津のトラベル社員でキャリアウーマン。彼女があとで しみじみとつぶやいた・・・

 こんなにお酒を飲んで金額かさんだ 『老人会』 様ははじめて  ・・びっくりしたァ・・

唐津トラベル案内で博多にて

◎船頭退職後の余命は5年・・・
 京都嵯峨嵐山からトロッコ列車で湯の花温泉にゆき、亀岡から保津川の船下りをした。急流では底がゴトゴト岩に当たるがあとは船頭の竿一本が推力。船頭と客のやりとりが楽しい。
 こっちは船会社の工務・海務の専門家集団だけに 「船底の材質は?」「新人船頭の補充は?」の質問がとび答える船頭さんは目を白黒。
 笑わせ上手の船頭の・・「一日4往復の労働はきつく、定年退職後の余命は5年、退職金が余るから 息子の嫁が喜ぶ・・・ 」の冗談には何故かみんなあまり笑わなかった・・・

保津川の船下り

◎富山湾に咲く白い貴婦人 帆船海王丸
 東京越中島の商船大学構内では明治天皇が乗られた帆船明治丸が公開され 二十分隊員も その案内や保守のボランティァをしたりする。

 ほかに横浜と富山には役目を終えた帆船練習船の「初代」日本丸と海王丸が係留されて 市民の海事教育に資されている。

 そこで航海訓練所元教官の分隊員と福井の分隊員の案内で富山の海王丸を見て 日本海のキトキト(富山弁で生きのいい)の魚を食べにいこうという話になった。

明治丸

◎二十分隊員と海王丸の遥か昔の思い出
 1期生は入学直後の昭和18年夏、海王丸で瀬戸内海を乗船実習。カツター漕いで高松に上陸、金毘羅さんの石段を駈けあがった。当時最年少教官だった吉野海軍少尉が引率した。

 この吉野教官は神戸商船学校を出てすぐに召集された24歳。このあと後輩をかばって海軍教育に異論を唱えたその為か『横鎮』・・横須賀鎮守府付・・に転勤命令がきた。・・・そして・・・海防艦「屋久」の航海長で終戦直前の昭和20年2月23日、仏印沖で敵艦と交戦、壮烈な戦死を遂げられた・・・

 「帽振れ!」の号令で校門に並んだ後輩が一斉に帽子を振る前を挙手のまま去ってゆかれた吉野先輩の御姿が今も脳裏に鮮明である。

 2期生は戦後の昭和22年春、海王丸で乗船実習を兼ねて復員輸送、シンガポールとラングーンから抑留されていた軍人をいたわり帰国させた・・

 海軍体操で鍛えた身体も今や少々ガタ気味の分隊員が、今回富山港の岸壁に係留された海王丸の舷門に着いた途端、皆背筋がシャンとして急なタラップをスイスイ上がったのには、正直いって驚いた。

 旅に同行した奥様達の話では 『旦那はこの会が楽しみで、出ると不思議に若くなる』・・と。

 60年前の『恋人』に逢えてみんな元気をもらった旅だった・・・

吉野教官

海王丸(2)

◎戦争があと半年続いたら・・・
 戦争と平和の瀬戸際にいた身としては この歳まで生きさせて貰いつくづく『拾った命』だと思う・・・
 あと半年か1年、戦争が続いていたら みんな生きてはいなかった。
 その共通の『思い』を抱くゆえ 二十分隊員の交友はまだまだ続く・・・

筆者海軍時代(左)

そのBへもどる 完 付録:アルバム