【そのB死んでいった男達・・】
これは戦争末期『商船学校生徒館』の同じ分隊で死と向き合って暮らした少年たちの50年後の物語である・・・
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◎轟音あげて向かってくる戦車のキャタピラーの下に飛びこんだ・・・ | |
真夜中の神奈川県辻堂海岸、自分がかがんで身を隠す深さのタコ壷を掘って爆雷に模した板をかかえて入り息を潜める・・・真っ暗なのに星がヤケに光っていた。 今は素晴らしい『リゾート』だが 戦争中あそこは 海軍の演習場で砲術学校のボク等の陸戦演習も辻堂だった。
上陸してくる米軍戦車をできるだけ 引きつけてから飛び出し板が車輪の下に入る様にうまく差し込んでパッと伏せる・・・訓練だ。 実際は怖いからみんな遠くから板を抛って伏せていたのにギリギリまで接近ししかも板を投げる瞬間躓いて頭からキャタピラーの下にとびこんだ生徒がいた。水産系の学校から来た生徒だった。 |
厳しい訓練。泳げない生徒も容赦なし |
学校葬に砲術学校の教頭をされていた宮様が焼香にみえた。
このほか遠泳中に事故死した生徒や横須賀機関学校で空襲の延焼を予測して校舎を間引く解体作業に参加、倒した梁の下敷になって『戦死』、少尉になった生徒など 戦闘行為でなくて死んでいった仲間も多かった。 |
海軍視察 |
二人乗りの特殊潜航艇の実習の時、下士官に聞いた話だがあの頃国立大学の国史学科に強烈な国粋論を講ずる教授がいて、その門下生が何人もこの特攻作戦に志願した。
ただ文科出身の悲しさ、モーター駆動の水中から浮上して内燃機関に切り替える際、吸入弁を開かずに起動するから艇内が真空になり、悲惨な最後を遂げた学生など、基地での訓練中に事故死した学生が、かなりの数にのぼるという・・・ 二十分隊で在学中に『戦死』した生徒は一人もいない。 |
帆走 |
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◎分隊会旅行の発足 | |
戦後50年経ち、神戸で「ほぼ全員再会」の念願成就したあと二十分隊会は、毎年1回集まって旅行をするようになった。 大抵一人の分隊員が幹事に立候補、自分の住む近くの温泉宿を確保して一泊する位だが、次回はどうしょうかと提案すると先を競って4〜5人が挙手、オリンピックではないけれど、4年後の開催地までたちまち決まる元気さにはびっくりだ。 どうやら皆に逢うのが待ち遠しくて仕方ないらしい・・・ |
紅葉の比叡山延暦寺 |
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◎2升の餅米で搗いたばかりのアンコロ餅がドカッと・・・ | |
『二十分隊会旅行』第1号は諏訪の分隊員が案内役,湖畔の宿だった。皆が宿に着いたとき彼が運び込んだ衣装箱ほどの大風呂敷のなかからホカホカのアンコロ餅が数十個、ドカッと現れたのには、猛者揃いの分隊員も一瞬息をのんだ。 昔あの頃、生徒館の寝室で16歳の少年が、空腹を耐えに耐えて寝る夜に見た夢は、みんなコレだったのを、どういう訳かご存知の、Y生徒の奥様が心優しく用意してくれたもの・・・
翌日は超デラックス観光バスで諏訪大社から蓼科と霧ガ峰を周遊、レンゲつつじ満開の車山頂上で日本列島360度を展望した。 車内には歌曲「大正生まれ」が・・・まだまだやらなきゃ なあお前・・・と流れていた。 |
初めての分隊会旅行(霧ガ峰ビーナスライン) |
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◎地図に残る仕事・・ | |
大成建設にいた名古屋の分隊員が下呂高山飛騨を案内してくれた。田中角栄の列島改造論の頃で、泊まったホテルが彼の建てたもの。 だから部屋割、宴会準備の事前打ち合わせはもうバッチリ・・字幕入り前回旅行のビデオが流れ、説明チラシがフルカラー、記念の集合撮影はリモコン操作。さすが副伍長(副級長のこと)。 | |
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◎千人武者行列と課業整列 | |
宇都宮の分隊員が日光鬼怒川と『杉並木例幣使街道』を特別手配の中型バスで走ってくれた。東照宮は折りよく例大祭。流鏑馬は終わっていたが、丁度日光千人武者行列が始まるところ、外人観光客に混じって見物した。
武者はほとんど少年と老人。見ているうち、少年達が白の事業服にズックの鞄、清水の校庭、『課業始め』のあの日の行進と重なって見えてきた・・・ |
課業整列 |
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◎『分隊』は遠くなりにけり・・・ | |
山形の蔵王高原に行ったときのこと。泊まった翌朝ホテルから山寺参りとさくらんぼ狩りに、手配の観光バスが動いた瞬間孫のようなガイドの少女に、マイクで「商船学校《20ぷんの会》の皆様」と挨拶された時にはみんなもうびっくり仰天した。 | |
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◎多士済々 人生究極の達人たちの暮らしぶり | |
分隊員も今や70歳を越えた。
世田谷区の男性料理教室に参加したことから区民の輪を次々拡大、引率して温泉旅行はもう何回も、シンガポールやアラスカ旅行、ハワイの米国戦艦ミズゥリー見学ツアーなど瞬時に組織決行する組織の達人K生徒。 剣道5段 囲碁5段、宇都宮市の老人会連合会の総帥S生徒。
商船学校と山形高校の両方でているから舞台で2度歌える、「日本寮歌祭のドン」I 生徒。
諏訪の名門企業の役員やって、あと下請会社を起業しその社長。市の家裁調停員で、「オレが住所不定かァ」と怒鳴ったY生徒・・・
このほかにもpick-upすればいくらでもいる。 |
商船学校土俵びらき |
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◎その日から55年のときが移ろい・・・ | |
O幹事が詳細な分隊員名簿を作ってくれた。昭和19年二十分隊が結成された時は、清宮分隊長以下 1期生14名、2期生46名、総員60名。
55年を経て今日迄に逝去された方は、清宮分隊長以下、1期生7名2期生7名、不明9名。現存者総員37名。 |
毎年の集会の想い出 |
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