【その@戦争が若者をいくらでも必要としていた】
これは戦争末期『商船学校生徒館』の同じ分隊で死と向き合って暮らした少年たちの50年後の物語である・・・


◎昭和20年照海神社での集合撮影

集合写真 
 ボクの商船学校最後の日、一緒に暮らした二十分隊全員が生徒館隣りの丘にあった照海(てるみ)神社の石段で、清宮分隊長を中心に記念の集合撮影をした・・・昭和20年3月30日のこと。
 3月10日の東京下町大空襲「米軍比島進攻」「沖縄上陸」「戦艦『大和』撃沈」「ひめゆり部隊自決」「本土決戦」「一億総特攻」「小磯内閣総辞職」待ちかまえていたソ連が突如参戦した頃である。

1期生の集合写真

 ボク達は商船学校の課程を終っても一日も故郷に帰ることは許されず、続けて研修のため海軍砲術学校に直行、入校した。ボクはこの時18歳。そこでは上陸してくる米軍戦車に爆雷を抱いて突っ込む陸戦訓練や、特殊潜航艇の製作実習が待っていた。

 不思議なのは別に知らせた訳ではないのに、この頃母と姉が重箱に食べ物詰めて次々と何度も面会にきたことだ。

 機密で言えなくても、知らせなくても親族は『特攻』が近いことを肌で感じとっていたのかもしれない。

全校体操(海軍体操)
 この頃『高等商船学校』は東京と神戸にあったのを駿河湾の三保の松原海岸に広大な施設を作って一つにした。

 ボクはその一期生、次のクラスの二期生・三期生はなんと3倍の人数が入ってきた。戦争が若者をいくらでも必要としていた。

 二十分隊は一期生14名、二期生46名の60人編成、一階が温習室(自習室)、二階が寝室の広大な『生徒館』で清宮分隊長の下一年間起居を共にした。


温習室

◎清宮分隊長のこと
清宮分隊長と寝室にて
 ボクはあの少年の日この清宮分隊長に実に強烈な感銘をうけた。

 清宮教官は当時34歳、神戸の商船学校を出て大阪商船にいたのを召集されて、教官になった。海軍大尉。教官のなかでも上席で、『フクちゃん』の綽名でよばれた。小柄で大きな生徒を下から見上げるようににこやかに話をされる教官だった。

 生徒を整列させたまま正面に立ち、大声上げてがなりたてる教官が多いなかでこの『フクちゃん』は毎朝分隊員を自分の近くに輪のように丸く集めて説話した。

・・・迷ったときは困難な途の方をえらべ・・・

・・・ものごとは 善意に解釈せよ・・・

今も耳に残る 訓話である。

・・・ここ《陸上》にいるとわからないが 君たちも今に『風』の本当の怖さがわかるよ・・・

というような身近なお話もあり、あとでつくづく実感したことを覚えている。

 広大な校庭に近接して教官官舎がマッチ箱を並べたように50軒位あった。

起床後と就寝前に全生徒が校庭に出て大声上げる号令練習の騒音に、生まれたばかりの赤ん坊が神経質になると講義中に苦情を言うのんきな独逸語の教授がいたりした。

 清宮教官の奥様は、正月帰省できなかった一期生をこっそり官舎によんで餅を食べさせてくださった・・・。

機動艇にて

校旗掲揚

◎再会 そして『二十分隊の会』へ
入浴
 

 戦争によって壊滅した日本海運を復興させる原動力になったのは終戦直前の3年間に商船学校に入学した青年の数と若さだといわれている。 『清水三代・そのとき歴史が動いた・・・』

 終戦、四散いろいろあって20年後、大手船会社の油買付担当になっていた二十分隊員K生徒と石油会社員のボクがばったり邂逅したことから、丸の内周辺で働いていた6人ほどの二十分隊員が、商船大学教授になっていた清宮分隊長をかこんで『二十分隊の会』をするようになっていった・・・

 清宮分隊長はいつもニコニコと実に楽しそうに杯を傾けておられたが、同僚の大学教授に・・・ そんな時代錯誤の会に出て・・・と非難されたと苦笑したお顔が昨日のように鮮明である。 

 清宮商船大学教授が60歳になられた春、体調を崩して退官、アッという間に逝去された。

 清宮教授は世話好きな人柄で学生課長をされていたが当時は『学生運動』が盛んで馴れない過激派学生相手の心労が原因となったらしい。

 告別式の帰り 分隊員の列はみんな無口だった。

◎学校の跡を見にゆこう・・・
 あの日から50年たった。

 分隊員も年をかさね 初老、二度目の勤めのひともいた。

誰言うともなく皆で『分隊』跡を見に行こうという話で、二十分隊員23名が集まった。

 駿河湾三保の松原の学校跡は今は東海大学と高校、国立海員学校の三敷地になっていた。生徒館のあった場所を探して 全員で・・この辺だ・・・・いや絶対違う・・と喧喧轟々の分隊跡捜索作戦がはじまった。

 とにかく茫然自失する位の変貌、なんの手がかりもないのだから海岸側から逆算したり、三保の松原方向から講堂や教室跡を探したりの一時間半、みんなくたくたになった時、…あったァ…

 小さな土手の蔭、老松の下、生い茂った夏草の中に高等商船学校のヒストリーを記した看板と砂に埋った石段・・なつかしの照海神社の跡である。

 全員息をのむ感動の静寂。

「おう、みんなよく来たなぁ・・・」 と清宮分隊長の声がして、石段の中央にニッコリ笑う、あの軍服のお姿が見えた・・・。


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