【そのA分隊長の墓参旅行と消息不明の分隊員捜索作戦】
これは戦争末期『商船学校生徒館』の同じ分隊で死と向き合って暮らした少年たちの50年後の物語である・・・


◎分隊員の合唱が香煙に乗って流れた・・・

清宮分隊長のお墓 
  −みどり碧(ミドリ)の水や空 咲くは真白き純情の海の生徒の三っボタン−

 

 清宮分隊長の墓石の上を二十分隊の会16人の寮歌合唱が香煙に乗って流れていった・・・
 戦争が終って40年、分隊長の突然の逝去から15年たった晩秋の午後 成田空港に程近い丘の上だった。

 分隊長の奥様には事前にご連絡申しあげたところ

大変お喜びいただき、ご長男、3人のご令嬢、お孫さんとともにお迎えいただいた。

 焼香、記念撮影のあと お墓近くのご親戚の庭先に案内され、用意された赤飯や揚げ物などを前に二十分隊長当時このご長男が誕生になり その3日後に『東海大地震』があったことなど 思い出話がいつまでも続いた・・・

 分隊長の奥様からは「私の中で(清宮教官のお姿)は、決して風化は致しておりませんが、皆さんとお話合いが出来て尚鮮明になった気が致します」とご挨拶があった。

このあと一行は京成電鉄の役員になっていた分隊員が差しまわした観光バスで犬吠崎のホテルに向かったが、これが二十分隊の会としての『旅』の始まりとなった。

分隊長墓参(1)

分隊長墓参(2)

◎消息不明者捜索大作戦




 戦後50年経っても二十分隊員の消息不明者が16名いた。

 それまで関東・関西の隊員がいろいろ情報交換しながら探したが捕捉不能だった。

 そのうちに関西で全員が集まって会を開こうということになり関西の2名の生徒を中心に準備をはじめた。関東では2生徒が学校の50年前の学籍簿を探し出し、記載の本籍地の村役場に現住地を照会するという山本勘助や古田捕手も思いつかなかった珍作戦を展開した。 
 その結果なんと7名の住所が分かり、諏訪と宮崎から新人2名が馳せ参じてくれたのである。


◎学校出てから50年ぶり・・・新神戸駅の再会
若い頃の集会
 大体連絡がとれていたとはいえ 関東、関西在住者も相互には卒業以来50年ぶりである。だから集合場所の新神戸駅改札前は定刻16時、上り、下りの新幹線が着く度に「分かる?オレだ」「いや?全然分からん」「アッ・・」「オウ・・」と小野田さんか横井さん、あの若王子さんが帰ってきたときの光景が随所に展開、駅員や外人観光客が目を丸くしていた。
 燃えあがった若き血はホテルで開宴するや一挙に高揚、こもごも立って来た道を語り、寮歌・軍歌の大合唱となったが、「こんな懐かしい会になんで今までオレを呼ばなかった・・・オレが住所不定かァ・・・」といき巻く大型新人もいて苦労して探し出してやった幹事の方が、平謝りする珍場面も見られた。


◎皺皺老顔から 紅顔を識別するコツ

 笑顔、特に笑った目の動きに注目する・・耳を澄まして声を聞く・・、忽然として分隊時代の少年像が浮かぶから不思議である。


機関実習

◎もう一度歌おう 初外出に砂丘で歌ったあの歌を・・・
外出
 2期生が入ってきた時、娑婆ッ気を抜くために一ケ月間外出禁止だった。そして迷惑なことに1期生も御相伴だった。
 やっとひと月たって初外出は清宮分隊長が引率して、分隊全員が隊列組んでのシーサイドウォーキングだった。

 砂丘に輪になって座った時、・・何か歌え・・の分隊長のオーダーにM生徒が立って歌った『・・誰か故郷をおもわざる・・』がなんともあの場にun・fitで皆の脳裏に強烈な印象を残した。

 50年経ってこの夜にもう一度 皆でそれを歌ったのが今でも笑ってしまう思い出である。

 50年ぶりの再会だから堅めに始まった宴会も棒倒しのとき根元にあぐらをかいて棒を抱き攻撃隊の下敷きになった一番大柄だったT生徒が、よく生きていたものだといったあたりから、座はもう「オイ」「オマエ」の『分隊少年』の集団だった。

 終戦・・方向転換の分隊だけに、一時四散した60名をここまで懸命に捜してきた。まだ不明が9名・・・

 『君の名は・・・』は一寸古いが、向こうもきっと捜している。一日も早く全員に会いたいと願いつつ皆帰っていった・・・。


再会し「誰か故郷をおもわざる」を唄う


棒倒し

その@へもどる そのBへ続く